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―― 希望(37)
部屋の外の通路は、黒い壁に部屋のドアが並んでいるだけで、外が見えない。
マンションと言うよりもホテルみたいな造りで、エレベーターまでの通路は、仄かなダウンライトの灯りがあるだけで薄暗い。
男はエレベーターには乗らずに、その横にある重い扉を開けて、階段を下りて行く。
「エレベーター乗らないの?」
「エレベーターなんか乗ったら、防犯カメラに映っちまうだろが。お前を逃したのが知れたら、俺がヤバいんだ」
男は、一度僕を抱え直し、なるべく足音を立てないように、ゆっくりと階段を下りて行く。
五階辺りで、もう肩で息をして苦しそうなのに休もうともせずに。どうしてそんなに必死に僕を逃がそうとするんだろう。
「……凌の代わりに、アンタが僕と一緒にいてくれるの?」
僕がそう訊くと、男は驚いたように細い目を丸くした。
「――あぁ? なんで?」
「だって……僕は此処を出たら行く所がないから」
「何言ってんだ、お前にはちゃんと帰る家があるだろ?」
「家には……帰りたくない……」
「はぁ? 何? 家出でもしたわけ? なんで?」
理由を尋ねられて、言葉に詰まる。また目頭が熱くなってきて、男の肩に置いていた手をぎゅっと握りしめた。
「ま、色々あるかもしれないけど、伊織は独りじゃないだろう?」
男は当たり前のようにそう言った。
なんでそんな事、言えるんだ。
「僕のことなんて、何も知らないくせに」
「ああ、知らないね。だけど、お前の事を心配して、捜しに来てくれてる人がいるんだから、独りなんかじゃないだろ?」
……え?
僕を捜してくれる人なんて、心配してくれる人なんて、いるはずない。
もしかして……と、頭に過る人は、一人しかいない。
「……誰が?」
心臓の鼓動が早くなる。まさか、まさかと、何度も浮かんでくる期待を打ち消しながら、僕は男の答えを待った。
「ああ、二十代後半くらいの男。タクシー捕まえとけって言っておいたから、下で待ってるはずだ」
すげえ心配していて、俺に殴りかかってきたんだからな。と、続ける。
二十代……やっぱり父さんじゃないんだ。
つい期待をしてしまった分がっかりもしたけれど、でもその反面、僕はどこかホッと胸を撫で下ろしている。
今、父さんに会ったとしても、僕はどうすれば良いのか分からない。
「……伊織」
ずっと面倒そうに喋っていた男が、急に改まったように真剣な声で僕の名前を呼んだ。
「……なんて言うか……悪かったな」
「何が?」と、訊き返すと、男は、「昔のこと」と言って、苦笑いを浮かべる。
「俺と出会わなけりゃ、きっとお前は今夜みたいな事に巻き込まれる事もなかっただろ?」
と続けて、男は僕から目を逸らした。
「……別にアンタの所為じゃない」
多分……、男と出会わなくても、きっと僕の人生は同じだったんだ。男の所為なんかじゃなくて、これは全部自分が引き寄せた結果だから。
それを認めたくなくて、全てを男の所為にしていたんだ。そう考えるとラクだったから。
男との事が無くても、父さんと僕の関係は、遅かれ早かれ今と同じになっていた。
男はゆっくりだけど休むことなく、僕を抱えたまま階段を下りて、漸く一階まで辿り着いた。
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