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 ―― 希望(38)

「一度人生の階段を踏み外すと、どんどん堕ちていっちまう。俺は引き返そうとしなかったからもう戻れないけど、お前はまだ間に合うだろう?」  男の言葉を訊きながら、でも僕は……もうこのまま消えてしまいたいと思っていた。  戻れる場所なんて、僕の居る場所なんて、初めから何処にも無かったんだから。  父さんには、僕は必要じゃない。タキさんが居るから。  それなら僕は……母さんの居る処に行きたい。 「誰かが手を差し延べてくれてるんだから、遠慮なんかしないで、その手を掴んで引き上げてもらえよ」  男は僕をエントランスへ続くドアの前に降ろして、ふわりと抱きしめた。まるで壊れないように、優しく包み込むように。 「なあ、俺が言うのも変だけど……これからは間違った方向には行くなよ。小さくてもいいから希望が見える方向に行けよ」  そう言って身体を離して、「立てるか?」と、顔を覗き込んでくる。  まだフラついているけれど、一人で立てないことはない。 「ここから先は一人で行け。エントランスには防犯カメラがあるからな。このドアを開けて、出口まで出来るだけ走れ。外で待っている人の手をちゃんと掴めよ」 「……アンタは? これからどうするの」 「俺は行けねえよ。上の部屋でまだ寝てる坊やの面倒を見てやらないとな」 「……だけど……このまま僕が行ってしまったら、凌はアンタのこと怒るんじゃないかな」 「大丈夫だ。色々あって今はちょっと荒れてるけど、根っこはいい奴だって知ってるからな」 「……凌には、アンタが付いていてくれるんだ」 「ああ、だから安心して行けよ」  男はまた面倒そうな声音でそう応えると、僕の背中を促すように軽く押す。  仕方なく僕は男から離れて、ドアを薄く開いた。  ずっと先に見えるガラス張りの自動ドアの向こうから、まだ低い位置にある朝日がエントランスに射し込んでいた。  暗い階段から明るいエントランスへ一歩足を踏み入れると、眩しさに目が眩む。  よろめきながら、数歩歩いて出口を見やると、外に誰かが立っている影が見えた。 「……伊織」  男に呼ばれて、足を止めて振り返る。 「進む方向を間違えるなよ」  男はそう言って、僕を追い払うように手を振った。  早く行け。とでも言うように。

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