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 ―― ESCAPE(2)

 珍しく相談したい事があると言ってきた、女子生徒がいた。  もちろん俺は、彼女の話を親身になって訊いたつもりだった。見えない壁を作りながら。  ありきたりのアドバイスや、心のこもらない励ましの言葉。俺は、無意識に見えない壁の内側で、親身になっているつもりでいた。  だけど彼女は、そんな俺の言葉を素直に受け止めてくれていたんだと思う。いや、中途半端な優しさが、誤解を生んだのかもしれなかった。  それからも、その女子生徒は、事あるごとに職員室や準備室に顔を出すようになり、俺の帰る時間まで、校門で待っていることもあった。  ある日、彼女は俺のことが好きなんだと、告白してきた。 『君の気持ちには応えられない』  偽りのない言葉。教師としては当たり前の答え。  だけど、そのひとことが、彼女を傷付けたのだろう。もっと他に言い方もあったのだろう。  そのうちに、学校内に噂が広まっていく。俺が女子生徒を弄んで、あっさり捨てたと。そして噂は尾ひれを付けて、どんどん膨らんで広まっていった。  それだけなら、まだ俺が最低の教師だという話だけで済むだろうと、安易に考えていた。だからその後、俺はその女子生徒に何のフォローもせずに、ただ時が過ぎるのを待っていた。それがお互いに傷付かずに済む最善の方法だと思っていたんだ。  だけど、そんな噂も聞こえてこなくなったある日、女子生徒は自宅の浴室で、自ら手首を切ってしまった。幸い発見が早くて未遂に終わったのだけど……。  女子生徒に相談を持ちかけられた時も、そして好きだと告白された時も、そしてその後も……あの時、どんな風に生徒と接すれば良かったんだろう。何が正解で、何が間違いだったのか、実は今でも判らない。  その頃は、もう教師という仕事に未練など無かったから、俺は校長が薦めてくれた他の学校の話を蹴って、学校を辞めた。  もうこれで、いろんな煩わしいことから解放されたんだと、その時はそう思っていた。  だけど ……、一週間、一ヶ月と時が流れていくと、妙に気持ちが焦ってくる。  それは仕事をしていないからだと、適当に、家庭教師や、塾の講師のアルバイトをして過ごしていた。  バイトと言えども、手を抜いたりできない職業だし、生徒との関係も全く無視というわけでもないけれど、学校と塾ではそもそも求められるニーズが違う。  割り切れるという面では、学校で教師をやっているよりは生きていきやすい。  これで良いんだと思っているのに、だけど満たされない気持ちを、ただ誤魔化していたのかもしれない。  そんな時だった。会ったこともないような遠い親戚が理事長を務める『桜川学院』に教師の空きがあるから考えてみないかと、叔母が話を持ってきた。  二度と戻るつもりもなかった筈なのに、心の奥底では、嬉しい気持ちがふつふつと湧いていた。  自分が教師には向いていないと、思い知らされたのに、もしかしたら今度こそもっと上手くいくんじゃないかって、浅はかな考えを抱いていしまっていた。  ――鈴宮伊織。  彼に初めて会ったのは、今日からまた教壇に立つという日の朝の、学校へ向かう電車の中でだった。

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