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 ―― ESCAPE(3)

 混み合う車内、蒸し暑い空気。電車のドアに額を擦り付けるようにして、彼は俯いていた。  彼の吐く息で、車窓が曇っているのが見えて、何か変だと気が付いた。  着ている制服は、俺が今日から着任する事になった高校の制服。  彼の両隣には、同じ制服を着た生徒が背を向けて立っている。  必要以上に、彼の背中に身を寄せるスーツを着た中年の男。  彼の身体に不自然に回された男の右手。  気を付けて見なければ、その異変には俺も気付かなかったかもしれなかった。  だけど、明らかに其処だけ空気が違う。  車窓に映る彼の唇が、僅かに動いたような気がした。  声は車輪の軋む音に掻き消されてしまうのか、それとも声を出せないのか。  ――痴漢? 男が男に……?  確かめるには、俺の立つ位置は遠すぎる。  電車はもうすぐ駅に着く。  自分がこれから着任する学校の生徒が被害を受けているかもしれないのに、このまま見過ごしてしまうのか?  俺は意を決して、車内の人混みを掻き分けて、彼の立つドアの方へ行こうとした。  ――その時だった、 「――おまえっ何するっ?!」  痴漢かもしれないと思っていた中年の男が、いきなり大声を出して右手を上げるのが見えた。  その手首を掴んだのは、さっきまで背を向けて立っていた、同じ制服を着た生徒。 「おっさん、痴漢かよ、変態」 「わ、私は別に……この子が……」  そのやり取りに、他の乗客も気が付いてざわつき始める。  俺は内心、ホッとしていた。これでもう、取りあえずこの車内では、あの子は被害に遭うこともないだろうと。  だけど…… 「……放して。ゲームは終わりだよ、おじさん」  そう言って、肩を掴んでいる男の手を振り払う少年の目つきに、俺は背中にゾクっと冷たいものが走るのを覚えた。  見た目は、小柄で年よりも幼く見えるのに、その眼差しは妙に大人びている。  桜色の唇を引き上げて、男に艶然と微笑みかける表情は、とても高校生に思えなかった。  それに……ゲームって何だ? どういうことだ。  考えを巡らせているうちに、電車は駅に着いた。そしてドアが開くと同時に、乗客がいっせいにホームへ吐き出されて、あまりの人の多さに、俺はその中年の男と生徒達を見失ってしまった。  その時は、まさか痴漢をした男から、金を巻き上げているなんて、思っていなかった。  だけど、『ゲームは終わりだよ』と言った時のあの眼差しが、妙に頭にこびり付いて離れない。  どうしてこんなにも気になるのか、自分でも不思議だった。  何か良くない空気も感じていたのも確かだったが……。  急いでホームに降りて、人の流れに逆らって、彼らを捜したが見つからない。  もう改札に向かったかもしれない。  ――放っておけばいい――と、頭の中でもう一人の自分がまた囁くのを感じながらも、俺は彼らの後を追っていた。

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