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―― ESCAPE(5)
「何が……、あったん……だ? 鈴宮、くんは?」
駅から全力で走ってきたから、息が上がってしまって、荒い息の合間に、途切れ途切れの言葉で問いかけた。
しゃがみ込んでいる大谷の隣に同じように並んでしゃがみ、目線を合わせると、彼は向いの黒っぽい建物へ視線を移して指をさす。
「伊織は三年の井上さんと、あの向かいのマンションに入って行ったんだけど……」
「あれは…マンションなのか?」
その建物は、マンションにしては少し妙だった。こんな時間なのにどの部屋も灯りが点いてない。建物全体が暗いのだ。
「分からない……入って確かめたかったんだけど、中に男の人が立ってて……」
言われて入り口を見れば、エントランスには灯りが煌々と点いている。此処から見える限りで灯りが点いているのは、そのエントランスだけだった。
確かに自動ドアの向こうで、壁に凭れて煙草を吸っている男の姿がこの位置からでもはっきりと見える。
時折、誰かが建物の前を通りかかれば、険のある目つきで外へ視線を向けている。
なるほど、あれでは大谷が近付けないと言うのも分かる。
そう言えば、いつも鈴宮と一緒にいた速水凌の複雑な家庭事情を、彼が停学になった時に、同僚の教師に訊いたことがある。
ここが速水の父親の関係する建物だとしたら……、エントランスに立っている男は、見張りの可能性もあるってことか。
鈴宮と井上が入って行くところを、大谷が見たのだから、二人がこの中にいるのは間違いない。
――正面から、あの男に訊いてみようか。……だけど……。
隣に座っている大谷の横顔をちらりと見てから、腕時計に視線を落とす。――もう11時半を回っている。
「大谷くん、君は、もう帰りなさい」
「……え? でも!」
「もうすぐ終電だし、高校生をこんな時間まで付き合わせるわけにいかない」
――それに、もしかしたら、事は簡単に済まないかもしれない。何が起こるか分からないのに、大谷を巻き込むわけにはいかない。
「そんなの! 先生と一緒にいる方が安全だから、俺、帰らない」
「ダメだ」
「こんな時間に一人で帰ったら、かえって補導されるかもしれないし」
――でしょ? と、大谷はニヤっと笑う。
「……だけどな……」
大谷がどう言おうと、それでも、ここは家に帰すのが正解だと思う。
「俺、伊織のことが心配なんだ。夏祭りで見かけた時、あいつの様子が何だか変だったから」
「どんな様子だったんだ?」
「どこ見てるのか分からないような虚ろな目をしていて……、それに泣いているようにも見えたし……」
そう言って、大谷は目を伏せた。
「俺、何があっても、伊織の味方でいるつもりだったのに……なのに、信じてやることができなかった。ちゃんと話をしようと思っていたのに、それも出来ずに気不味いまま会えなくなってしまって……」
道路を走る車のライトが、街路樹の影を照らして走り去っていく。その瞬間、大谷の瞳からポロリと零れ落ちる涙が見えた。
――今、泣いているのは、大谷の方じゃないか。
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