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 ―― ESCAPE(11)

「――なんで? あいつ逃げてしまう!」  焦った声でそう言って、今にも追いかけて行きそうな大谷の腕を掴んで引き留める。 「良いんだ。鈴宮があの建物の中にいる事だけは確かだと分かったから」  井上の姿が路地の暗がりの中へ消えて行くのを見送りながら、落ち着いてもらう為に大谷の肩をポンポンと軽く叩いた。  きっと、井上は自分のことよりも、鈴宮のことよりも、速水のことを心配している。俺が今夜のことを、また学校に知らせたりしないかと危惧しているんだ。  もう電車もないのに、彼はちゃんと家に帰れるだろうか……という事だけが心配だった。 「……仕方ない。もう一度戻って、さっきの男に当たってみよう」  井上からは、確かな情報をいくつか訊く事が出来た。  部屋は八階。鈴宮と速水以外にも五人いる。  そして……、  ――『嘘なもんか。さっきだって、六人に代わる代わる突っ込まれて悦んでたさ』  あれは、大谷と言い合っていた井上が、苦し紛れについ吐いてしまった嘘だと思いたいが……。もしもそれが本当だとしたら……やはり、このまま帰るわけにはいかない。なんとしてでも、連れて帰らなければ。  ただ、問題は……井上の言っていた八階まで辿り着けるかどうか。  あの男が、快く通してくれるなんて甘い考えは捨てた方が良いだろう。 「先生、今度は俺も一緒に行くから」  少し遅れて付いてくる大谷が、後ろから声を掛けてくる。  正直、彼が一緒に居てくれる方が、俺としては心強い。だけど……。 「……駄目だ。君はもう帰った方が良い」  俺は足を止めて、大谷を振り返った。 「先生、一人じゃ無理だよ。さっきだって、あの男に追い返されてたじゃないか」  不甲斐ないけれど、確かに大谷の言う通りだった。でも、あの男だって暴力団の組員なんだ。  速水の部屋で、今何が行われているのか、これから何が起こるか俺にだって分からないのに、もし大谷に何かあったら、それこそ……。 「先生、俺がいないと、もしもの時に警察に連絡できないだろ?」  さっき俺が言った冗談を、そのまま返された。  だけど、これは冗談では済まない話かもしれないんだ。さっき井上が言ってた事が本当の話で、それがもしも……合意の上での行為でないなら……。  ――そんな現場を大谷が見たら……。  それに、もしも本当に警察沙汰にでもなったら?  鈴宮はどうなる……。速水は……退学は免れないだろう。  このまま大谷まで巻き込んでしまうのは、やはり避けなければならない。 「――先生っ」  俺に詰め寄る大谷の後方からタクシーが近付いてくる。はっきりと空車の文字が見えた。 「君は家に帰って待っててくれ。ちゃんと後で連絡するから。鈴宮くんのことは、俺に任せてくれないか」 「そんな! 先生一人じゃ無理だってば」 「絶対大丈夫だから。ちゃんと鈴宮を連れて帰るから。だから君は俺が連絡するまで、この事は誰にも言わないでいてくれるね?」  そう言って、大谷の肩に手を置いた。  大谷は、少し考えを巡らせるように、俺を見ながら数度瞬きをする。 「……それは……こんな事、誰にも言えないけど……でも……」  まだ言葉を続けている大谷の肩をしっかりと掴み、俺は近付いてくるタクシーに手を上げた。

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