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―― ESCAPE(12)
「――先生ッ、待っ……」
タクシーの後部座席のドアが開いて、有無を言わせずに大谷を押し込んだ。
大谷の家の住所までは憶えていないが、最寄りの駅名を伝えて、料金を運転手に渡した。
「先生!」
「後で必ず連絡するから」
それだけ言って、閉めようとしたドアを大谷が両手を突っ張って止める。
「――待っ――、先生、俺、伊織に伝えなきゃいけない事があるんだ」
「……伝えないといけないこと?」
大谷は頷いて、必死に訴えるような眼差しで俺を見上げてくる。
「最後に伊織に会った時に伝えたかったのに、最後まで言うことができなかった言葉があるんだ。だから、俺……先生と一緒に行きたい。伊織に会いたい」
鈴宮を想う大谷の気持ちが、苦しいほど伝わってきて、その瞳があまりにも真っ直ぐで真剣だから、つい許してしまいそうになるのを、俺はかぶりを振って堪えた。
「鈴宮くんは俺が必ず連れて帰るから。君が伝えたい言葉は、その時にゆっくりと伝えてあげれば良いよ」
時間は、これからもたっぷりあるじゃないかと続けると、大谷の瞳が薄っすらと濡れたものに覆われた。
「連れて帰ったら、絶対に君に最初に連絡して会わせるよ。俺は約束はちゃんと守るから」
それでもまだ納得しきれない様子で、「でも……」と、言いかける大谷の頭を、宥めるつもりでポンと軽く叩くと、その拍子に瞬きをした瞳から涙が零れ落ちる。
――鈴宮……こんなにも君のことを想ってくれる友人がいることを、君は知っているのだろうか。
「じゃあ、お願いします」と、運転手に伝えて車から離れると、まだ何か言いかけた大谷の声を遮るように後部座席のドアが閉まる。
だけど彼は、閉まったドアの窓を開けて、「先生!」と叫ぶ。そして少し考えるように間を置いて「本当に……、一人で大丈夫なんですか?」と、心配そうな声で続けられた言葉に、俺は思わず苦笑した。
きっと大谷から見たら、俺はかなり頼りなく思えるんだろうな……。
「大丈夫、俺に考えがあるから心配するな。ちゃんと家で待ってるんだよ」
「本当ですか?」
「ああ、本当だ」と応えて、俺は軽く手を上げて見せた。ただ、大谷を安心させてやる為に。
ウィンカーを出して、ゆっくりと走り出したタクシーを見送りながら、俺は自分で言った言葉を頭の中で繰り返して自嘲する。
――俺に考えがあるから、心配するな。
考えなんて、何もないくせに、よくあんな大見栄切れたもんだ。
――さて、どうするかな。
数メートル先に見える、黒い建物を眺めながら、長い息をひとつ吐く。
――なるようにしか、ならないな。
さあ、仕切り直しだ。
今度は絶対に後には退かないと自分に言い聞かせ、目的の建物へ足を進めた。
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