255 / 330
―― ESCAPE(20)
「……どうした?」
動揺しているのを誤魔化す為に冷静さを装って問いかけたが、鈴宮は、まるで耳には届いていない様子で、テーブルの上のペットボトルへ手を伸ばす。
だけど、その指先は目当ての物を掴めずに、僅かに掠めただけだった。
「……あ……」
カタンと音を立てて倒れたペットボトルから、トクトクと水が溢れてテーブルから床へ滴り落ちる。
テーブルの上に突いた鈴宮の手も、しとどに濡れてしまっていた。
慌てて倒れたペットボトルを元に戻し、傍にあったテイッシュを数枚掴んでテーブルから落ちる水を堰き止めながら鈴宮を見れば、濡れた手を顔の前に翳し、滴り落ちる水へ舌を伸ばしていた。
乾いた唇から伸ばした舌先で、濡れた白い手首を舐め上げる仕草に、俺は暫く我を忘れ見惚れてしまっていた。
「ま、待て、待て! ちゃんとコップに入れてやるから」
漸く気が付いて、鈴宮をその場に残し、俺はキッチンへ行って、食器棚の扉を開ける。
――今……、何を考えていたんだ、俺は。
鈴宮は、ただ無心に水を欲していただけで、他になんの意味もないのに。
だけど、ほんの一瞬だったけれど、俺は今…… 確かに、その艶かしい姿に欲情してしまっていた。
棚からグラスをひとつ取り出し振り向くと、鈴宮はダイニングテーブルの前で、もうペットボトルの水をそのまま口飲みしていた。
俺は、もう用の失くなってしまったグラスを眺め、溜息をひとつ落とした。
「…… せんせい……」
グラスを置いて気を取り直しダイニングへ戻れば、俺を見上げた鈴宮に、辿々しくそう呼ばれた。
どうやら、俺だという事は分かっているみたいで、少し安堵する。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
だけど見上げてくる瞳には、いつもの勝気さは微塵も無く、同じ人物だとは思えないほど弱々しい。そしてすぐに視線を逸らすように長い睫毛を伏せて俯いてしまう。
「…… 帰りたくない……」
「…… え?」
ーー 帰りたくない……。そう呟くように言うと、鈴宮は俯いたまま俺にしなだれかかってきた。
細い腕が、纏わりつくように俺の首に絡められ、引き寄せられる。
鈴宮はゆっくりと顔を上げ、虚ろな眼差しで俺を見つめていた。
「…… え、どうした……すずみ……っ」
水に濡れた唇を重ねられ、言葉を失った。
つま先立ちで、唇を押し付けてくる鈴宮に、全体重を掛けられて、俺は、二、三歩後ろへ蹌踉めいた。
咄嗟に掴んでしまった鈴宮の細い腰。掌に伝わるその感触に、胸がまたドキリと跳ねる。
合わさった胸に、首に回された腕に、唇の隙間から挿し入れられた舌に、理性が崩れていく。
ともだちにシェアしよう!