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 ―― ESCAPE(20)

「……どうした?」  動揺しているのを誤魔化す為に冷静さを装って問いかけたが、鈴宮は、まるで耳には届いていない様子で、テーブルの上のペットボトルへ手を伸ばす。  だけど、その指先は目当ての物を掴めずに、僅かに掠めただけだった。 「……あ……」  カタンと音を立てて倒れたペットボトルから、トクトクと水が溢れてテーブルから床へ滴り落ちる。  テーブルの上に突いた鈴宮の手も、しとどに濡れてしまっていた。  慌てて倒れたペットボトルを元に戻し、傍にあったテイッシュを数枚掴んでテーブルから落ちる水を堰き止めながら鈴宮を見れば、濡れた手を顔の前に翳し、滴り落ちる水へ舌を伸ばしていた。  乾いた唇から伸ばした舌先で、濡れた白い手首を舐め上げる仕草に、俺は暫く我を忘れ見惚れてしまっていた。 「ま、待て、待て! ちゃんとコップに入れてやるから」  漸く気が付いて、鈴宮をその場に残し、俺はキッチンへ行って、食器棚の扉を開ける。   ――今……、何を考えていたんだ、俺は。  鈴宮は、ただ無心に水を欲していただけで、他になんの意味もないのに。  だけど、ほんの一瞬だったけれど、俺は今…… 確かに、その艶かしい姿に欲情してしまっていた。  棚からグラスをひとつ取り出し振り向くと、鈴宮はダイニングテーブルの前で、もうペットボトルの水をそのまま口飲みしていた。  俺は、もう用の失くなってしまったグラスを眺め、溜息をひとつ落とした。 「…… せんせい……」  グラスを置いて気を取り直しダイニングへ戻れば、俺を見上げた鈴宮に、辿々しくそう呼ばれた。  どうやら、俺だという事は分かっているみたいで、少し安堵する。 「どうした?  気分でも悪いのか?」  だけど見上げてくる瞳には、いつもの勝気さは微塵も無く、同じ人物だとは思えないほど弱々しい。そしてすぐに視線を逸らすように長い睫毛を伏せて俯いてしまう。 「…… 帰りたくない……」 「…… え?」  ーー 帰りたくない……。そう呟くように言うと、鈴宮は俯いたまま俺にしなだれかかってきた。  細い腕が、纏わりつくように俺の首に絡められ、引き寄せられる。  鈴宮はゆっくりと顔を上げ、虚ろな眼差しで俺を見つめていた。 「…… え、どうした……すずみ……っ」  水に濡れた唇を重ねられ、言葉を失った。  つま先立ちで、唇を押し付けてくる鈴宮に、全体重を掛けられて、俺は、二、三歩後ろへ蹌踉めいた。  咄嗟に掴んでしまった鈴宮の細い腰。掌に伝わるその感触に、胸がまたドキリと跳ねる。  合わさった胸に、首に回された腕に、唇の隙間から挿し入れられた舌に、理性が崩れていく。

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