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 ―― ESCAPE(25)

「会いたくなければ、無理しなくて良いよ。大谷くんには君は眠っているからと伝えておくし」  だけど、鈴宮は壁側を向いたまま、それ以上反応することはなかった。  無理をすることはない。今はゆっくりと心も身体も休めることが大切かもしれないし。  そうだ。それからでも遅くない。父親からの伝言も、今でなくても……。  玄関のドアを開けると、見るからに駅から走ってきましたと言わんばかりに、額から落ちる汗を手の甲で拭いながら、肩で息をしている大谷が立っていた。 「先生っ、伊織は?」 「うん、実はよく眠っていてね。起こすのも可哀想だから……」  鈴宮が今は誰とも会いたくないと言うのだから、今日のところは大谷には悪いが、このまま帰ってもらおうかとも思っていたのだが。 「あ……あいつ、大丈夫なんですか?」  だけど、こんなに汗をびっしょり掻いて、必死に鈴宮のことを心配している大谷を見てしまうと、玄関先で追い返してしまうのは気が引ける。 「うん……、大丈夫だよ。まあ、ちょっと上がって涼んで行きなさい」  鈴宮の身体の状態も、家の事情も、速水の部屋での事も、大谷の知っている事以外は言うつもりはなかった。 「お邪魔しま……す……」  鈴宮が眠っていると俺が言ったからか、大谷は小声でそう言って、俺の後から玄関で靴を脱ぐ。  そんなに気を遣わなくても良いんだけどな……。  リビングから大谷の話す声が鈴宮に届けば、やっぱり少しは会いたいと思うんじゃないだろうか……なんて、浅はかな事を考えていた。  寝室は、リビングとはドア一枚で続いているから、話し声は嫌でも鈴宮の耳に届くだろう。  ところが、そんなわざとらしい事をしなくても、鈴宮は、もう自分から寝室から出てきてリビングに立っていた。 「伊織!」  その姿を見るや否や、大谷は飛び付くように駆け寄り、鈴宮を抱きしめていた。 「……汗くさい」 「――あっ、ごめんっ」  鈴宮に言われて、大谷は跳ねるように身体を離したけれど……。  すぐにそっぽを向いてしまった鈴宮の、大谷に抱き締められた一瞬に見せた嬉しそうな表情や、青白い頬が桜色に色付いたのも、気のせいなんかじゃない……と、思う。

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