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―― ESCAPE(27)
一瞬、キョトンと驚いたような表情をして、
「……馬鹿じゃないの……」と、鈴宮は、それだけ言うとまた顔を横に背けてしまった。
でも、さっきまでと違う。
二人の間を流れる柔らかい空気を感じる。何か、縺れた糸が解れたような、そんな瞬間を見たように思えた。
大谷が話しかければ、鈴宮は視線を外したまま素っ気なく一言二言短く返す。
でも、そっぽを向いているけれど、僅かにその顔を綻ばせている。
二人の様子に、俺も口元を緩めながらキッチンに向かった。
昨日から何も食べていない鈴宮に、何か胃に優しいものでも食べさせようと思うのだけど。
「鈴宮くん、お腹空いてないか? 何か食べれるかな」
「……食べたくない」
キッチンから問いかければ、そんな生気のない返事が返ってきた。
食欲がないのは、無理もないかもしれない。でも少しだけでも何か口に入れて欲しい。
「でも、昨日から何も食べてないだろう? お粥なら食べれるかな」
「……要らない」
だけど、鈴宮から返ってくる声は、魂が抜け落ちたような……どことなく生きることを諦めているように思えてならない。
「何? 伊織、食欲ないのか?」
と、大谷が訊いても、小さく頷くだけだった。
仕方ない……何か水分だけでも摂らせようかと考えていると、大谷の明るい大きな声が聞こえてきた。
「あ、じゃあ味噌汁は? 俺、作ってやる」
いや、今は無理しなくてもいいと、そう言おうとした時だった。
「……味噌汁……」
二人が座っている場所から離れているキッチンには、鈴宮の小さく動いた唇から出た言葉は、最初聞き取ることができなかった。
「慎矢の……味噌汁が食べたい」
「おう、いいぞ。作ってやるな」
大谷は嬉しそうに飛び上がるように立ち上がる。そして、キッチンに入って来るなり、勝ち誇った顔を俺に向けてくる。
「先生のお粥より、俺の味噌汁が食いたいんだって」
「なんで味噌汁なんだ?」
「伊織は、俺の作る味噌汁が好きなんだよ」
嬉しそうに「勝手に使うよ」と、鼻歌まじりに冷蔵庫の中を漁り始める大谷の後ろ姿を眺めながら、俺は苦笑した。
「いいよ。自由に使いなさい」
*
生徒二人と共に、俺の一人暮らしの部屋の小さな食卓を囲んでいるのが、なんだか嘘のように思える。
相変わらず、鈴宮は口数も少ないし、味噌汁以外には箸をつけないけれど。
ずっと大谷が一人で喋っていただけな気もするけれど。
それでも、時々小さく笑う鈴宮の顔を見ることもできた。
こうして少しでも傷付いた心と身体を休めていれば、きっと良い方向に向かうんじゃないかと、この時はそう思えて少し安堵していた。
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