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―― ESCAPE(29)
「何言ってんだ。ちゃんと俺がいるだろう?」
そう声を掛けても、しがみ付く手にいっそう力がこもる。
怯える鈴宮を抱きしめて、震える華奢な背中をさすってやる事しかできなかった。
「ベッドに戻ろう?」
雷鳴が遠去かり、部屋にはもう、時計が時刻を刻む音しか聞こえない。
それでもまだ、鈴宮は俺の胸に顔を埋めたまま、背中のシャツを掴む手の力を緩めなかった。
身体を強張らせたままの鈴宮を立ち上がらせて、ベッドへ連れていき座らせても、鈴宮の手は俺のシャツを掴んだままだった。
「もう静かになったし、眠れるだろう?」
そう宥めるように言っても、鈴宮はただ首を横に振る。
まるで幼い子供のように。
「……一緒にいて……」
鈴宮は、縋るように上目遣いで俺を見詰め、それは聞き逃しそうな程、小さい呟きだった。
「……でも……」
「…… 一緒に、寝てくれるだけでいいんだ。独りは嫌なんだ」
ーー 昔のことを思い出してしまうから……
と、小さく付け足すように言葉を零して、瞬いた瞳からは大粒の涙が一筋落ちる。流れた涙が頬を伝い、唇の端を濡らしていた。
その光景は一瞬のことだったのに、俺の目には、ゆっくりとコマが送られるように見えて。きらきらと煌めきながら白い肌を濡らし、唇の端に留まる雫が美しくて、思わず指で触れてしまっていた。
ただそれを拭うだけのつもりだったのに。
雫は熱くて、濡れた指先に熱を灯すようだった。
そのまま、薄い桜色の唇を指でなぞれば、瞬いた瞳からまた涙が零れ落ちて……
多分、それは一瞬の気の迷い。
僅かに俯きかけた鈴宮の顎に指をかけ、掬い上げ、俺は唇を近付ける。
「…… 先生……」と、鈴宮が声を出さなければ、きっとそのまま俺は自分の情欲を彼に押し付けてしまっていた。
はっと我に返り、俺は反射的に鈴宮の身体を抱きしめた。
口付けをしようとしたのを、そうやって誤魔化したんだ。
「…… キス、しないの?」
腕の中で身じろぎもせず、そう訊いてくる。
「しないよ」と、しか返せなかった。
「……してもいいよ」
「…… まさか。そんな事はできないよ」
今、自分がしようとした事を否定したのは、鈴宮にではなくて、自分に言い聞かせる為だ。
「そうだね……先生は、僕のこと嫌いだもんね」
鈴宮は少し笑い声を洩らし、諦めたような声でそう言った。
確かに、鈴宮は俺にとって、扱い難い苦手な生徒だった。
だけど今は……こみ上げる感情を俺は必死に否定している。彼は俺の生徒なんだから。
「――嫌いなわけないじゃないか。君の方こそ、俺の事嫌いだったろう?」
「……うん。……でも今は……前ほど嫌いじゃない」
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