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―― ESCAPE(30)
そう言って、鈴宮は腕の中で身体の力を抜いて、俺に寄り掛かってくる。
――嫌いじゃない……。
それはたぶん、深い意味もなく、何気なく言った言葉なのだろう。
だけどそれが鈴宮の口から聞けた事に、俺は胸の奥が暖かくなるような心地よさを感じた。
「迎えに来てくれたのが、先生で良かった」
「そうか」
「凌の家から出て、先生が立っているのが見えたあの時も、今も。こうしているだけで安心できる気がする」
その言葉通り、気持ちはずいぶん落ち着いたようで、涙も身体の震えも、いつの間にか止まっている。
俺は、無防備に委ねてくるこの身体の重みが愛おしくて、さっきほんの一瞬芽生えた情欲が再燃しそうになる。
「じゃあ、もう寝よう。明日は朝が早い」
本心を隠して、俺は鈴宮の身体をやんわりと離し、ベッドに横になるように促した。
鈴宮は素直に横になったけれど、身体をベッドの端に寄せ、一人分のスペースを空けて俺を見上げてくる。
「もう雷は鳴ってないよ? そんなに怖かったのか?」
狭いシングルベッドで寝るのは朝まで理性を保つ自信がない。やんわりと断る為に少し冗談ぽく言ったつもりだったのだが、
「雷は嫌いなんだ。母さんが死んだ時のことを思い出すから」
と、伏せた長い睫毛を震わせながら、そう告白する鈴宮に、胸が締め付けられた。
「そうだったのか」
鈴宮の母親が亡くなった時に、雷が鳴っていたという事しか俺には分からないけれど、あんなに怯えるほど辛かったのは訊かずとも伝わる。
余計に思い出させてしまったと、安易に口にした言葉を後悔した。
心の中で溜め息をひとつ吐き、観念してそのスペースに身体を滑り込ませて、置き場に困った手を華奢な背中に柔らかく回すと、鈴宮は身を寄せてくる。
静か過ぎて、自分の心臓の音がトクトクと、やけに大きく聞こえる気がする。
「……今朝はごめんなさい」
俺の肩口に顔を埋めて、不意に鈴宮はそう言った。
「え?」
最初は聞き違いかと思った。鈴宮が俺に謝るなんて思いもしなかったから。
「好きな人以外に、身体を求めちゃ駄目だって慎矢とも約束したのに。でもどうしようもなく寂しくて、それを埋めてほしくて、先生を利用しようとしたんだ」
それは、ここに来て、風呂に入らせようとした時の事を言っているのか。
――『他の人を本気で好きになれば、そうすれば、忘れられるかもしれない』
あの時鈴宮が言った言葉を思い出すと、胸が戦慄いて痛みを覚える。まるで鈴宮の哀しみに共鳴するように。
どう応えてやればいいのか、情け無いけれど、分からなかった。
そんな風に苦しんでいる鈴宮に、俺は何度も情欲に抗えずに流されてしまいそうだったのだから。
「僕がまた慎矢との約束を破って壊れそうになるのを、先生が止めてくれたんだ」
――だから安心できるのかも……。と、段々と声が小さくなって、最後の方は、掠れて消えていく。
寝息を立て始めた鈴宮の髪をそっと撫でながら、俺は長い溜め息を吐いた。
――俺はそんなに、できた人間じゃない。
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