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 ―― ESCAPE(31)

 翌日、朝から鈴宮を連れて学校へ行った。  誰も来ていない美術室を見て、鈴宮は呆れた顔を俺に向けてきた。 「先生、もしかして、美術部って部員一人も居ないんじゃないの」 「いや…… 居るよ。五人だけ」  と言っても、殆ど顔を出さない幽霊部員なのだけどね。 「…… なんだ」と、呆れながらも、鈴宮はどこかホッとしているように見えた。  人と接するのは元々普段から苦手だし、今は余計に負担なのかもしれない。  美術部の人気がない事は、今回ばかりは好都合だった。  だけど、人との関わりを避けるばかりではいけない。  行き帰りの電車に乗ることや、少しでも外を歩くことが、今の鈴宮には大切なのだと思う。  枝葉を揺らす風や、空に吸い込まれていくような小鳥のさえずり。それから、グラウンドから聞こえてくる運動部の生徒達の声や、鳴り響いてくる吹奏楽部のロングトーンも。  そんな普通の日常が、さり気なく傍にあることも、いつも感じていて欲しかった。  鈴宮は、絵を専門的に習ったわけでもないし、日頃から描き込んでいるわけでもないのに、ただ趣味で好きなだけの俺から見ても、彼の描く絵には、惹きつけられるような魅力を感じた。  元々、素質があるのか、それとも憶えていないくらいの幼い頃に誰かに教わっていたのか。  そして何よりも、絵を描くことが好きなんだと分かった。  取り敢えず、スケッチブックを渡し、身近な物をモチーフにデッサンしてみてと言えば、周りの物を片っ端から描いていく。  椅子や机、絵具皿や筆洗、イーゼルや油壺、黒板消し……。  教室内にある物は手当たり次第に描くのだけど、その集中力が凄かった。  二日でスケッチブックが埋め尽くされる頃には、教室にある物は殆ど描き尽くし、鈴宮の目は外へと向けられていた。 「今度、外にスケッチしに行こうか」 「外? 嫌だよ、暑いし」  鉛筆を画用紙に滑らせ、教室の窓から外を眩しそうに眺めている横顔を見ていると、きっとその提案を喜んでくれると思ったのに。外の景色から視線を外そうとしない鈴宮に、素っ気なく断られてしまった。 「ねえ見て先生」  休憩にしようと、職員室の冷蔵庫で冷やしていた桃を、俺が剥いてやっている時だった。 「この桃ひとつでも、見る方向によっては、色んな表情があるよね」  鈴宮は、まだ切っていない桃を手に取って、窓から入る陽に翳しながらそう言った。 「……そうだね」 「部屋の中にだって、まだ描いていないものは沢山あるし、僕が気付かないこともきっとまだあるんだ」  それは、部屋の中でもまだ描き切れていないという事だろうか。  それとも、もっと別の話をしているのだろうか。  窓から入る陽射しが、柔らかい髪や、血色が良くなってきた肌を、より一層輝かせていて。  俺は、部屋の中だけでなく、色んなシーンでの君を観てみたいなんて、考えていた。

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