267 / 330

 ―― ESCAPE(32)

 ******  数日、穏やかな時間を過ごして、鈴宮は相変わらず言葉数は少ないけれど、時折俺に笑顔も見せてくれるようになっていた。  気にはなっていたけど、先延ばしにしていた父親のことを、朝食の時にさり気なく話をしてみようと考えていた。  あれから何度か鈴宮の家に電話はしてみたのだけれど。  家政婦のタキさんという人が、『伝えておきますので』と言うばかりで、父親が電話口に出ることも、此方に折り返し連絡がくる事も一切なかった。 「鈴宮くん、家の人が心配するといけないから、一応ここに居ることは連絡したのだけど」 「……そう」  短い返事だけして、鈴宮は食べた後の食器を片付け始める。  ここに来た初日のことを思えば、随分と食べてくれるようにはなったけれど、それでも普通の男子高校生の食欲には程遠いと思う。  もっと食べた方がいいぞと言いたくなる言葉を飲み込んで、鈴宮の後を追い俺もキッチンへ向かった。 「 父さん、何か言ってた?」  蛇口レバーを上げて水を出しながら、鈴宮はさり気なく訊いてくる。  俺が家に連絡したことは気になっている筈なのに、冷静さを装っているように見えた。 「……心配していたよ。その……帰りたくなったら、いつでも帰って来なさいと仰っていた」  父親の言った通りに伝えることは俺にはどうしても出来なくて、微妙に言葉のニュアンスを変えてしまっていた。 「……そう」  鈴宮はそう応えたきり、黙りこくったまま食器を洗い始めた。  重い沈黙が、水の流れる音と食器が触れ合う音に、静かに混ざり合う。 「どうする? 一度家に帰ってみるか? 俺が一緒に行っても良いし」  俺が先にその沈黙を破った。  鈴宮は少し考えている様子で、食器を洗う手が止まる。  一呼吸置いてから視線を手元に落としたまま、「……帰りたくない」と小さな声が返ってきた。  家で何があったのか、あの父親と何があったのか、詳しいことは何一つ俺には分からないけれど。  ――『だから父さんも僕を愛してはくれなかった』  二人の関係を思えば、あの言葉で大体の想像はしていた。 「……でもな……」  このまま逃げていても、何も解決しないという事だけは、間違いないと思う。  そう言いかけた言葉は、俺を見上げた瞳に遮られてしまった。 「……もう少し、このまま此処に居たらダメ?」 「……いや、駄目じゃない。俺は良いんだけど……、でもずっとという訳にはいかないだろう?」 「なら、もう少しだけ、このままでいさせて」  そう言うと、鈴宮はまた視線を手元に落とし、食器を洗いながら「…… もう少ししたら、ちゃんと帰るから」と続けた。 「……分かった……けど、何か家のことで悩んでいるのなら、話してくれないか」  想像はつくけれど、鈴宮の方から話をして欲しいと思っていた。  時間がかかっても良いから、俺を頼って欲しいという、それはエゴかもしれない。  家出をしている生徒に対して、教師としては間違っているのかもしれない。 「……うん、そのうち話す」  相変わらず、素っ気ないけれど、でも……  ――そのうち話す。と言ってくれた。  今までのことを思えば、その言葉は俺にとっては、宝物を貰ったように思えて嬉しかった。

ともだちにシェアしよう!