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 ―― ESCAPE(33)

 家に帰りたくないと言う鈴宮を、俺は甘やかしてしまっているだけなのかもしれない。  いや、もしかしたら、俺が鈴宮を家に帰したくないと、心の片隅で思っているのかもしれない。  カレンダーはもう八月に入っていた。  新学期が始まるまでには、鈴宮の父親とも一度会って話をしなければと、気持ちは焦っているのに何も行動に移せずにいるのは、俺ももう少しだけこのままでいたいと思っているからじゃないだろうか。  俺は、鈴宮のことを……。  その時、頭に過った思わぬ感情に胸が騒めくのを、何度も違うと打ち消した。  *  鈴宮は、毎日飽きることなく、美術室に通っていた。 『油絵を描いてみたい』  俺が勧めたわけでなく、鈴宮から興味を示してくれたことに少なからず驚いたけれど、そう言ってくれたことが嬉しかった。きっと良い方向に向かっていると、思えたから。  ごく簡単に、道具の使い方や、基本的な描き方を説明しただけだった。 「モチーフはどうする? 材質の違うものを三点くらいセッティングして……」  何かないか探しに教室から出ようとすると、「先生」と、鈴宮に呼び止められた。 「僕の好きなもの、描いていいよね?」  期待に満ちた瞳は、俺が駄目だなんて言う筈ないよね? と、自信満々で言っているようで、思わず苦笑いをしてしまう。 「もちろん良いよ」  そう応えると、光が零れるような美しい笑顔を見せてくれた。  鈴宮は、木炭などは使わずに、直接キャンバスに、画溶液で薄めた絵具で下書きを描き始めた。  しかも、モチーフが目の前にあるわけでもなく。  薄く伸ばしていく下地カラーだけでは、何を描いているのか俺の目からは分からなかった。  何を描いているのか尋ねれば、「僕の一番好きな景色」と、教えてくれた。  その場所に行って、描いた方が良いのでは? 暑い季節だし、写真を撮ってくるとかでも良いんだよと言えば、 「毎日見ていたから、季節ごとに移り変わる表情も、時間ごとに見える光も影も、覚えているから」と話してくれた。  少しずつ塗り重ね、段々と鈴宮の記憶の景色が俺の目にも見え始めてきていた。  時々、部活の合間に大谷が美術室に遊びにくる。 「また来たの? 陸上部ってよっぽど暇なんだね」  と、鈴宮はツンとすまし顔で言う。それでも、必ず絵を描く手を休めて、暫くの間大谷と他愛ない会話を楽しんでいるように見えた。 「おっ、これ、あの階段から見える景色じゃん」  キャンバスを覗き込んで声を上げた大谷に、鈴宮は「勝手に見ないで」と、怒っていたけれど。それでも前に比べると随分色んな表情を見せてくれるようになったと思う。  *  だけど、そんな穏やかな日々は、ある日些細な出来事から変化が訪れる。  その日は、希望者のみの夏期補講があった日で、俺も数コマ受け持っていた。  授業をひとつ終えて美術室を覗いてみれば、同じクラスの多田と脇坂が、鈴宮と喋っていた。  いや、鈴宮は喋ってなかったのかもしれない。絵筆を置き窓の方へ顔を向けていた。 「どうした? 君達も美術部に入りたくなったのか?」 「まさか! 久しぶりに鈴宮に会ったから話してただけですよ!」  慌てた様子で、そう言うと、二人はそそくさと出て行ってしまった。 「何か言われたか?」  二人の姿が見えなくなってからそう訊けば、鈴宮はさっきと変わらず窓の外を眺めながら「別に……」と、ポツリと応えた。

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