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―― ESCAPE(34)
その時は、なんとなく憂鬱そうに見えた横顔も、帰りの電車の中では口数は少ないけれど普段通りに思えたから、ふと胸を掠めた嫌な予感も、家に着く頃には忘れてしまっていた。
*
「汗掻いただろう? 夕飯の支度する間に、先にシャワーしておいで」
「別に後でも……」
鈴宮はいつも夕飯の準備や家事を手伝ってくれる。
後でいいと素っ気なく断るのも俺に遠慮しているのだと、毎日一緒にいて、鈴宮の性格も少しずつ分かってきていた。
「いいから、先にさっと浴びてきなさい。ほら」
汗で湿った髪に、そっと手を伸ばして指先で触れれば、ふわりと油絵具の匂いがする。
「……分かった」と、鈴宮は渋々といった感じの声で応えて、風呂の準備をし始めた。
学校だけで見ていた時には分からなかった。意外と素直で、人に対して凄く気を遣う。
あんなに冷めた目をしていたのに、時々見せてくれるようになった笑顔は年相応で可愛い。
――それに綺麗だ。
光が溢れるような笑顔を思い浮かべて、自然に口元が緩んでしまっていた。
夕飯の支度にとりかかろうと、冷蔵庫から野菜を出して洗っていると、不意に玄関のインターフォンが鳴った。
「あれ……誰かな。 鈴宮くん、悪いけどインターフォン出てくれる?」
ちょうど寝室から着替えを持って出てきた鈴宮に頼めば、素直に頷いてくれていた。
こんな時間に誰だろう。
暫く経っても、鈴宮は何も言ってこないから、セールスかなんかで断ったんだろうと思っていた。
だけど……、野菜を洗い終わり水を止めて、タオルで手を拭きながらキッチンから出ていくと、インターフォンのモニターの前で鈴宮が立ち尽くしていた。
「……どうした?」
不思議に思いながら声をかけても、鈴宮は何も反応しない。ただモニターを見つめている。
慌てて鈴宮の後ろから、俺もモニターを覗き込む。
「…………」
そこに映る人の顔に、驚きですぐには声を出せなかった。
「……鈴宮さん」
漸く声に出せば、「伊織と話をさせてもらえますか」と、鈴宮の父親の低い声が返ってきた。
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