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 ―― ESCAPE(36)

   *  玄関の前を通り過ぎ、突き当たりにある部屋は、リビングとは反対の位置にある。  もう何が入っているのか憶えていない段ボールや、積み重ねた本。埃の匂いのする狭い部屋は、書斎にするつもりだったのに、今では物置きと化している。  俺がこの部屋に入ってからまだ10分程しか経っていないのに、もうリビングの様子が気になって仕方ない。  何を話しているんだろうか。  よく考えてみれば、鈴宮を迎えに此処に来たのに、俺には聞かせたくない話なんてあるのだろうか。  そして、あまりにも静か過ぎる。  この部屋が、いくらリビングと反対の位置にあると言っても、距離的にはそんなに離れている訳じゃないのに、物音ひとつ聞こえてこないのが気にかかる。  この部屋のドアを開けてちょっと覗きさえすれば、リビングのドアに嵌め込まれたガラス越しにでも、中の様子くらいは分かるだろう。  覗いてみようか……。  そう思った時だった。キィ、と、ドアの開いた音が小さく聞こえてきた。  続いて、廊下を歩くスリッパの音がして、間を空けずにこの部屋のドアがノックされる。 「ありがとうございました。私はこれで失礼しますので」  聞こえてきた低いトーンは、父親の声だ。  慌ててドアを開けてみれば、鈴宮の父親は、玄関で靴を履いているところだった。  ――え? 一人で帰るつもりなのか? 「あ、あの、伊織くんは? 一緒に帰らないのですか」  焦りながら問えば、父親はゆっくりと振り返って頭を下げる。 「色々ご迷惑をお掛けしました。今後のことは伊織には話しておきましたので」 「今後のことって……?」  意味が分からない。 「明日か明後日には迎えが来ると思いますので、それまで伊織のことをよろしくお願いします」  何のことを言っているのか、全く理解することが出来ない。 「迎えって、どういうことですか? 今日、連れて帰るんじゃなかったんですか? あなたの息子じゃないですか!」 「……息子、じゃないんですよ」 (――え?) 「伊織は、私の実の息子ではないのです。だから、あの子の帰る場所は、私の家ではない」  ちょっと待て……息子じゃないって。  次の言葉が見つからない。この人が言った言葉を何度も頭の中で繰り返しても、今聞いた話だけで全てを理解することなんて、出来る訳がなかった。  だけど……これだけは分かる。  父親と触れ合ったあの一瞬に見せた表情や、不安を残しながらも、ちゃんとこの人と向き合おうとしていた鈴宮の気持ちは――。 「……何を勝手な事を言ってるんですか」  この人だって、知らない筈はない。――鈴宮の気持ちを。 「伊織くんは、あなたのことを……あなたが迎えに来てくれるのを待っていたって、あなただって分かっているんじゃないですか? 違うんですか?」  どうしようもなく怒りが込み上げてくる。 「先生。あなたは、伊織の何ですか」  だけど、怒りに任せた俺の声とは反対に、父親の声は、あまりにも冷たく低く響いた。 「何って……、俺は彼の担任です」  その応えを嘲笑うように、鈴宮の父親は、ふっ、と、口角を上げた。 「それでは、あなたには全く関係のない話だ。口出しは無用です」

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