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―― ESCAPE(37)
低い声で冷たく言い切り、凍てつくほどの鋭い視線で見据えられて、俺は言おうとした言葉も、思わず呑み込んでしまう。
「では、失礼します」
そう言うと、固まってしまっている俺を冷ややかに一瞥して、彼はドアノブに手を掛ける。
――帰ってしまう。
「待ってください!」
このまま、この人を帰してしまってはいけない。それだけしか頭になくて……。無我夢中で、出て行こうとする肩を、後ろから掴んで引き留めていた。
「……まだ、何か」
鈴宮の父親は、溜め息混じりにそう言って、諦めたようにドアの方を向いたまま立ち止まった。
「もっとちゃんと伊織くんと話し合ってください。俺だって、これだけ関わっているのに、無関係って事はないでしょう?」
必死に訴える言葉を言い終わるのと、ほぼ同時だった。
鈴宮の父親は振り返ると、肩を掴んでいた俺の手を払い、腕を掴み返してきた。
「――?」
「先生は、この腕で伊織を抱いたのですか?」
腕を掴まれたまま、詰め寄られて、俺より少し高い位置から見下ろされた。
「……何を言って……」
掴まれた腕を引き寄せられて、今度は指を強く握られた。
「この指で、あの子の肌に触れたのですか?」
「――そんなことっ、する訳ないじゃないですか!」
「伊織は、あなたを誘ってこなかったのですか?」
そう言われて、あの夜の鈴宮が脳裏に過る。
あの時……
――『……先生、お願い……だから、僕を愛して』
懇願するように唇を重ねてきた……。
「……俺は……」
言いかけて、言葉にならずに口籠ってしまうと、鋭い視線を痛いほどに感じた。
「……それでも先生は、応えなかった……」
「――あ、当たり前じゃないですか」
「そんな覚悟もないくせに、中途半端な同情は、要らないと言ってるんです」
「そんな!」
じゃあ、あのまま、俺の身勝手な情欲を鈴宮にぶつければ良かったとでも言うのか。
激昂を抑える事が出来ず、掴まれていた手を力任せに振り解けば、鈴宮の父親は冷ややかに口角を上げて言葉を続けた。
「伊織は、そういう風に生まれついたのです。先生だってそういう目で、伊織を見ていたんでしょう?」
そう言われてしまうと、否定することは出来なかった。確かにあの時俺は……そう思うと口を噤んでしまう。
「……そして、一度覚えた快楽を、忘れることなんて出来ない」
「それは、あなたが、伊織くんに教えたんじゃないですか」
本当の父親じゃないとしても、保護者という立場なのに。
だけど感情を抑え切れない俺とは違い、鈴宮の父親は落ち着いていて、そして冷たく低い声で続ける。俺には、到底理解をする事のできない言葉を。
「だから、他の男に教えられる前に、私が覚えさせただけだ」
「そんな……、おかしい。あなたは狂ってる」
――何とでも。と、言って、彼は口元だけを緩ませた。
だから、伊織にはもうこれ以上関わるな。と言わんばかりに、鋭い眼差しが俺に釘を刺す。
俺には、もうそれ以上言葉が見つからなかった。
鈴宮の父親は、何も言えない俺に背中を向けて、再度ドアノブに手を掛けた。
「どんなに愛しても、閉じ込めても……」
彼は独り言のように呟きながら、ドアを開ける。道路を行き交う車の音が流れ込んできて、その声は喧噪に紛れていくようだった。
「自分の意思で鍵を開けて飛ぼうとするのなら、それを留めることは、私にも出来ないのだから……」
最後の方は、遠くで聞こえたクラクションに、完全に掻き消されてしまった。
次の瞬間、玄関のドアの閉まる重い音が響いて、外の音が遠くなる。
一瞬呆然と見送ってしまった事に気付いて、追いかけなくては、と、一歩足を前に踏み出した時だった。
リビングの方から、悲鳴のような、哀しい声が聞こえてきた。
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