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 ―― ESCAPE(38)

「鈴宮くん……」  リビングに戻ってみれば、帰ってしまった父親を慌てて追いかけようとしたのか、座っていた椅子が転がっているすぐ傍で、鈴宮は崩れるように床に倒れていた。  床に顔を突っ伏している彼は、さっき聞こえてきた悲痛な声からして、泣いているのかと思った。 「大丈夫か?」  駆け寄って、そう声を掛ければ、ふっと顔を上げる。  鈴宮は、泣いてなどいなかった。  虚ろに揺れる眼差しが、俺を見上げている ……。俺に助けを求めている……。  そう思ったのに、抱き起そうとした俺の手は、よろりと立ち上がった鈴宮に躱されて、空を切る。  弱々しく伸ばした手は、俺に向けてじゃなかった。 「……鈴宮くん?」  俺の声など届いてはいない。  鈴宮は覚束ない足取りで歩き出し、リビングの入り口で、扉枠に一旦手を突いて、玄関へと向かう。  ――父親の後を追いかけようとしているんだ。  だけど、もう誰もいない玄関の三和土に裸足で降りて、鈴宮は力無く座り込んでしまう。  その様子に、俺は声をかけることを躊躇っていた。  泣く事も喚く事もしないのは、それを忘れるくらいに、心は打ちのめされているからだ。 「――鈴宮くん、部屋に入ろう?」  そう言うのが、やっとだった。  座り込んでいる細い身体を、壊れ物に触るようにそっと支えて立ち上がらせると、鈴宮は俯いたまま呟くように声を出した。 「……父さんは、僕のこと、要らないんだって」  そう言うと、クスッと小さく自嘲するように笑う。 「……要らないなんて、そんな訳ないだろう?」  いったいあの人は、この子に何を言ったんだろう。こんなに傷付くほどに、どんな風に話をしたんだろう。 「本当の父親の処へ行けって言うんだ。……可笑しいよね、あの人と僕が一緒にいるだけで、父さんはあんなに怒っていたのに」 「……お父さんがそう言ったのか? 本当の父親の処へ行けと?」  鈴宮は頷いて、そして言葉を続ける。  それはまるで、自分の事ではないように、淡々と。 「父さんは、タキさんと結婚するんだって」 (――え?)  聞き違いかと思った。 タキさんって、あの家政婦のタキさんの事を言っているのか? 「父さんは、僕を一度だって、本当の息子だと思ったこと無かったって」  ――本当の息子と思ったことが無い。  鈴宮にとって、これ以上残酷な言葉は無いんじゃないだろうか……? なのに、彼は薄く笑いながら俺を見上げた。 「ねえ? 先生。僕、信じられないよ。父さんは、ただの一度も僕のことを本当の息子と思ったことは無いって、言ったんだ」  ――だから、実の父親の処へ行けって……。  ずっと我慢していたのだろう、そう続けた声は、最後の方は嗚咽に混じり小さく消えていった。

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