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 ―― ESCAPE(43)

 ――速水の所へ? 「……どうして」  どうして今更……そんなことを言うんだ。 「……思い出したんだ……凌なら、僕の欲しいものを全て与えてくれるって……」  その言葉はぼんやりと、俺に向けてではなく、ただ呟くように紡がれた。  どこか遠くへ、想いを馳せるように、うっとりとした表情で宙を見詰めて。 「……身体の全てが、凌の中へ同化していくような……何も考えなくても良い、あの世界でずっと浸っていたい」  ――やっぱり、僕を救ってくれるのは、凌しかいない。  そう続けて、鈴宮はまたゆっくりと前を向き、ふらふらと寝室から出て行こうとする。 「鈴宮くん!」  慌てて立ち上がり、ドアノブに手を掛けた彼を、後ろから両肩を掴んで引き寄せた。 「駄目だ、それは違う、それは違うんだよ」  ――なんてことだ……。 今頃になって、あの夜の感覚を思い出すなんて。  あの時は、普通の状態じゃなかったと、いくら説明したとしても、今の鈴宮の心には届かない。 「……そうだ、僕はあの時、凌のものになった筈なのに。どうして離れてしまったんだろう」 「駄目だ! 鈴宮くん、手を離しなさい」  鈴宮は、ドアノブを握った手を離そうとしない。  しっかりと絡みついた指を、一本一本剥がして、両手を後ろから封じ込むと、鈴宮は腕の中で暴れ出した。 「どうして! 行かせてくれないの。先生じゃ駄目なんだ。僕には凌が……、凌が必要なんだ!」 「違うだろう? 速水くんは君の恋人なのか? 速水くんを愛してるのか?」  いつもなら、力では敵う筈のない細い身体が、全身で俺を拒絶していた。  少しでも抱き締める力を弛めたら、鈴宮は本当に外へ飛び出してしまいそうだった。 「……先生には分からない……、僕の気持ちなんて分からない! あの時、凌は優しかったんだ。まるで恋人のように!」 「ああ、分からないね。薬の力を使って、自分の思い通りにしようとした奴の所へもう一度行きたいなんて、愛してもいないのに、快楽だけを求める君のことなんて!」  どうしようもなく、腹が立つ。どうしようもなく怒りが込み上げる。  それは誰に向けての怒りなのか。  卑怯な手段で鈴宮を自分のものにしようとした速水にか。  虚ろな快楽に身を委ねて、現実から逃げようとする鈴宮になのか。  それとも、傍にいて、何も出来ない自分になのか。  暴れる鈴宮を担ぎ、乱暴にベッドに放り投げた。 「――っぅ、」  ベッドのスプリングに身体がいささか跳ねて、鈴宮は小さく呻き声をあげた。  突然の俺の行動に、驚愕した瞳で見上げている。  その瞳を無視して、俺はすかさず、その華奢な身体の上に覆いかぶさって動きを封じ込めた。  鈴宮が何処にも行かないように。 「――嫌っ、放して! 放せ!」  こうやって身体ごと上から押さえ付けられたら、どんなに鈴宮が暴れようとも、どうする事も出来ないだろう。 「ばかっ、先生なんか嫌いだっ」 「嫌いで結構だ」

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