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―― ESCAPE(46)
なんとかボタンをとめてズボンを履き、ベルトを締めながら寝室を出ようとすれば、足が縺れそうになる。
「――くそっ」
苛立っても仕方がないのに、焦る気持ちを抑えることができない。
一旦玄関まで行き、靴を履きかけて、携帯を忘れたことに気付いて、またリビングに戻る。
――何をやってるんだ俺は。
自分を落ち着かせるために、大きく息を吸って、吐き出した。
サイドボードの電話機の横に置いてあった携帯を掴み、急いで玄関へ向かおうとしたところで、電話機の傍のメモに何か書いてあるのが目に入った。
気持ちが急いていて、先に行きかけた足を無理やり止めて、手だけをメモへと伸ばす。
ガタッと、腕がサイドボードにぶつかる音が派手に響いた。
――鈴宮の字だ!
(あと少しなので、絵を仕上げに行ってきます)
たったそれだけの、短い文章だった。
「あの馬鹿……、もっと目立つ所に置けよ……」
一瞬ホッとして、つい悪態が口をついて出てしまう。
……だけど……。
俺はそこで初めて、時計を見た。
時刻は、まだ7時を過ぎたところだ。
2時間に設定してある浴室のタイマーは、俺が見た時にはもう既に切れていた。
遅くても、鈴宮は5時にはシャワーを浴び終えていた筈で。
――いったい何時に家を出たんだ。
最寄り駅の始発電車は、4時40分。
学校方面に向かう為には、一番早い電車で5時19分発。
鈴宮は、その電車か、もしくはそれに近い時間の電車に乗ったに違いない。
そんなに早くに学校に行っても、校門も校舎も鍵がかかっている。
それくらいの事は、鈴宮も知っているだろう。
しかも、今日は休日で、部活動は試合で遠征に出ている運動部以外は、休みの筈だった。
少し落ち着いていた胸が、またざわつき始める。
――本当に、学校に行ったんだろうか。
確かに、鈴宮の絵はあと少しで仕上がるところまでは、描けているのだろう、とは……思う。
だけど、ここ数日、鈴宮が出来上がるまで見ないでくれと言い出して、俺は絵の進み具合を見ていない。
休日の今日に、焦って仕上げなければならない理由とは、何だ?
――『明日か明後日には、迎えが来ると思います……』
昨日、鈴宮の父親が言った言葉が頭を過る。
迎えとは、実の父親のことなのだろう。――だから鈴宮は、絵を仕上げようと思った?
右手に携帯、左手に鈴宮のメモを持ったまま、暫く呆然と立ち尽くしていた。
――いや、とにかく、学校だ。
もしも本当に学校に行ったとして、美術室には入れない。
校舎の入り口を無理やりこじ開けたとしたら、警備システムが作動して直ぐに警備員が来る。
誰もいない職員室に近付いても、同じことが起こる。
今の時点で、何も連絡が無いということは……、学校には居ない可能性も捨てきれないけれど。
それでも、何かの手掛かりになるものが、残されているかもしれない――。
外に出ると、吹き上げるような強い風に煽られて、玄関ドアが意思に反して大きな音を立てて閉まる。
朝から眩しい太陽が照り付けて、夏らしい濃い青空が広がっているのに、今日は異常に風が強い。
玄関に鍵を掛けようとして一旦差し込んだキーを、少し考えて、回さずに抜き取った。
鈴宮は鍵を持っていない。もしも入れ違いになった時に部屋に入れなかったら困るから。
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