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 ―― ESCAPE(48)

 窓の鍵が開いていたのは、正直予想外で驚いた。  やっぱり鈴宮は学校に来ていたのかもしれないという期待が膨らんだ一方で、じゃあいったい何処へ行ってしまったのかという不安が交差する。  慌ててその窓を開け放てば、窓枠に、バンッと、打つかる派手な音を立ててしまい、静かな校内こだまするように響き渡った。  ――慌てるな、慌てるな……。  自分に言い聞かせながら、身を乗り出して中を覗き込む。  強い風が教室内に吹き込んで、手前の作業台の上で、錘代わりに置いているカルトンの下からはみ出した資料が、カサカサと音を立てた。  薄暗い教室内に、人影はない。  ――いったい何処にいるんだ……。  落胆しながらも、でも確かに此処に来ていたのだと、確信はしていた。  窓枠に手をかけてよじ登り、中へ侵入する。  残りのカーテンも全て開け、部屋の中を外からの明るい陽射しで照らす。  いつもと変わらない美術室の隅に、キャンバスを置いたイーゼルが、こちら側を背にしてひっそりと佇んでいる。  傍の椅子に無造作に置いてある制作着が、鈴宮が座っているような錯覚を起こさせた。  まるで……そう……、今そこで、鈴宮が絵を描いているような。 『……出来上がるまで見ないでくれる?』  ツンとすました顔で、鈴宮は俺に言葉を投げつける。 そのスペースは、俺には近づけない聖域に思えていた。  ゆっくりと、床を踏みしめて、俺は其処へ歩み寄っていく。  イーゼルの後ろから、回り込むようにして、絵の前に立った。 「……あぁ……」  鈴宮の描いた絵が目に飛び込んできた瞬間に、俺は小さく声を上げ、立ち尽くした。  鈴宮は、家の近くにある階段から見える風景を描いていた。  だけどこれは、ただの風景画ではない。  ――鈴宮の記憶だ。  てっきり、今、見る事のできる風景を描いているものだとばかり思っていた。  高台に位置する階段から見下ろす街並み。  ずっと向こうに微かに見える、薄い水色の穏やかな海。  水平線と混じり合うような空が、キャンバスを超えて遠く果てしなく続いているように思える。  そして、夏の眩しい光とは違う、穏やかで柔らかい色の陽射しが街を覆っている。     街の中心を流れる小川に沿うように植えられた桜並木の、美しい桃色のグラデーションが海まで続いている。  優しい絵だ。  これは、春の景色だ。  それも、ずっと幼い頃の鈴宮の記憶の中の。  俺はこの土地に詳しい訳ではないが、それでも住宅街から抜けていく線路を走る電車のカラーが、デザインチェンジする前の古い車両だという事くらいは分かる。  ――『何を描いてるんだ?』    『……僕の、一番好きな景色』――  子供の頃の、母親が生きていた頃の、あの人を本当の父親だと疑ったこともなかった頃の。  多分、鈴宮が一番幸せだと思っていただろう幼い頃の、遠い記憶の中の景色。  気が付けば、視界が滲んでいた……。次から次へと涙が溢れて止まらない。  この絵は……、鈴宮が伝えたかった言葉かもしれない。  俺には、あの父親へ残した、遺書のように思えてしまっていた。  ――ずっとあの頃のまま、愛されていると思っていたかった――と……。

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