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 ―― ESCAPE(52)

 今日のこの強い風に流されるように、手を広げてそのまま飛んでいきそうだった魂も、ちゃんと腕の中で感じる。 「目が醒めたら居なかったから、心配した……」 「ちゃんとメモに書いておいたでしょう?」 「そうだけど……」 「行き先を書いておいて、自殺なんてするわけないじゃん」 「だけど……さっきの君は、今にも何処かに飛んで行ってしまいそうだったよ」  腕の中で、鈴宮がクスッと笑い声を漏らした。 「可笑しいか?」 「だって先生が言ったんじゃない。――束縛から逃れて、どこへでも飛んで行ける……って」 「……それ……聞いてたのか」  ――あの時……、鈴宮は寝てると思っていたのにな。 「それとこれとは、意味が違うだろう?」  身体の上の鈴宮の重みを愛おしいと感じながら、何処までも青い夏の空を見上げて、俺も思わず笑っていた。 「先生……」 「ん?」 「……さっきの本当?」 「さっき?」 「愛してるって言った」  そう言って鈴宮は、俺の胸に埋めていた顔を上げる。  漸くお互いの視線が絡み合った。 「ああ……」  さっき……。  あれは……あの時は、無我夢中だった。鈴宮にもう会えなくなると思うと、胸が苦しくて。  言うつもりはなかった想いを、思わず告白してしまった自分を思い出して、顔が熱くなる。  だけど、あの言葉は嘘じゃない。 「……本当だよ」  そう応えた瞬間、鈴宮の頬が薄い紅に染まっていった。  桜色の唇が、「うそだ」と動く。 「うそじゃない」  俺は正直に、そう白状して、薔薇色に染まった頬を両手で包み顔を近づけて、その唇をそっと自分の唇で塞いだ。  ――うそなんかじゃない。  ずっと……、教師と生徒の一線は越えてはいけないと思っていた。  一人の生徒に、特別な感情は持ってはいけないと思っていた。  だから、気付かないふりをして、想いは胸の中に閉じ込めた。  今も……、それは間違いではないと思っている。  だけど、これだけは分かって欲しい。ただ単に情欲に流されて、口づけたのではなくて。  快楽が目的じゃなく。  ――君を、愛してる。  柔らかな唇が、少し戸惑っているのを感じる。  風に揺れる細い髪が、俺の頬を擽るように触れている。――微かに油絵具の匂いがした。  ひゅうっと音を立てて、一層強い風が、コンクリートの上で寝転がっている二人の身体の上を吹き抜けていく。  ガシャンッ! と、フェンスの音が、煩く屋上に鳴り響いた。  ピクリと鈴宮の肩が震えたのをきっかけに唇が離れ、二人して音のする方へ視線を廻らせた。  強風に煽られて、一部が外れてしまったフェンスの本体が、音を立てながら揺れている。 「……あれ、どうするの? 先生、怒られるね」  クスクスと、鈴宮が可笑しそうに笑う。そんな風に悪戯っぽく笑うところも俺は好きだよ。 「……逃げようか」  そう言って立ち上がった俺を、鈴宮はキョトンとした顔で見上げている。 「俺も、怒られるのは嫌だから。二人で逃げよう」 「え?」  不思議そうに少し驚いた表情が、ちょっと楽しい。 「いいから、おいで」  俺が笑いながら差し出した手を、鈴宮はまだ不思議そうな顔をしながらも、握ってくれた。  その手を引き上げて鈴宮を立たせ、手を繋いだまま一緒に走る。  さっき乗り越えてきたバリケードを越えて、螺旋階段を今度は二人で降りて行く。  壊れたフェンスが強風に吹かれている音が、段々と遠ざかっていった。

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