297 / 330
―― ESCAPE(62)
静かな美術室の中は二人の吐く荒い息遣いと、壁に掛かっている大きな時計の針が時を刻む音が響いていた。
まるで、今まで止まっていた時間が、突然動き出したかのように感じる。
外からは、相変わらず強い風の吹く音が聞こえてくる。時々、気まぐれに窓ガラスを揺らして。
此処に来た時と何も変わらない……なのに何故だろう、とても静かで、落ち着いた気持ちに浸っている。
腕の中で身体を弛ませている伊織の、汗に濡れた髪に鼻先を埋めながら俺は、この心地よさをもう少しだけ感じていたいなんて、願っている。
身体を離してしまうと、途端に消えてしまいそうな気がしていた。
ふと、視線を前に向けると、伊織の描いた 記憶の中の春の景色が視界に入った。
「……絵、完成したんだね?」
「……うん」
そう短く応えて、伊織は密着していた身体を少し離して肩越しに振り向き、その春の景色へ視線を廻らせた。
「……本当は完成したら、白く塗り潰すつもりだったんだ」
「どうして? もったいない、あんなに綺麗なのに」
「でも……、完成してみたら僕も……、もったいないと思った」
そう言って、伊織は俺の肩に頭を凭れさせる。
「そうだろ?」
伊織は、俺の肩口で「うん」と、小さく頷く。
「あの絵を描こうと思ったのは、昔、幸せだったことを思い出したかったから。でも……」
と、そこで言葉を区切り、伊織は細く長い息を吐く。
「でも、昨日父さんに、自分の子供だと思ったことはないと、言われてショックだった。だから、過去のこと全部消してしまおうと思ってた。だけど……」
だけど……と言った後は、段々とその声が涙混じりになっていく。
「……仕上げていくうちに、どんどん昔のことを思い出して……忘れたくないって……思ったんだ……」
俺の肩に鼻先を埋め、泣き顔を見せないようにしているのだろう。そういうところは、伊織らしいのだけれど。本当はもっと俺に甘えてほしいと思うけれど。
だけど、それでも、そんな伊織が本心を打ち明けてくれている。それだけでも俺にとっては嬉しい事だった。
「……忘れなくていい」
幸せだと思っていた記憶も……、それは全部、偽りのない事実だと思う。
俺は、去り際に独り言のように残していった、あの父親の言葉を思い出していた。
――『どんなに愛しても、どんなに閉じ込めても……自分の意思で鍵を開けて飛ぼうとするのなら、それを留めることは、私にも出来ないのだから……』
あの人もきっと……、間違いも確かにあるけれど、深い処では自分の息子として愛していたと俺は思うよ。
「帰ろうか」
閉め切っていた窓を開けると、途端に外から強い風がカーテンをなびかせて、教室内に入ってくる。
さっきよりも高い位置から照り付ける陽射しに目を眇める。
汗に濡れた肌に、吹き付ける風は生暖かいけれど、それでも閉め切った教室内よりは、幾分心地良く感じた。
途中のコンビニで飲み物を買って車に戻ると、伊織はエアコンの温度を下げて、風向きルーバーに顔を寄せていた。
「汗を掻いてるのに、そんなに温度を下げたら風邪をひくぞ」
そう咎めると、「……暑い」と言って、ぷいっと横を向いてしまう。
冷たく冷えた缶をその頬にくっつけてやると、伊織は首を竦めながら飲み物を受け取った。
「先生が、あんな暑い所で、セックスなんてするからだ」
「悪かったな」
伊織は、応えずに、黙ってプルタブを開けて、飲み口に唇を付ける。
俺も同じようにして、コクコクと音を立てながら一気に喉へ流し込んだ。
「……僕は……やっぱり愛って、よく分からない」
此方を見ずに、伊織は呟くように、そう言った。
「そうか……」
顔は窓の方に向けていて、今は表情は見えない。
それでも……、
あの時……身体を繋げた時に、君がとても幸せそうに微笑んでいたのを、俺はちゃんと憶えてる。
今は見えないことも、時が過ぎて、振り返った時に分かる事もある。
その時に後悔ではなく、俺が君を愛した事を思い出してくれたら、それで良い……。
ともだちにシェアしよう!