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 ―― ESCAPE(62)

 静かな美術室の中は二人の吐く荒い息遣いと、壁に掛かっている大きな時計の針が時を刻む音が響いていた。  まるで、今まで止まっていた時間が、突然動き出したかのように感じる。  外からは、相変わらず強い風の吹く音が聞こえてくる。時々、気まぐれに窓ガラスを揺らして。  此処に来た時と何も変わらない……なのに何故だろう、とても静かで、落ち着いた気持ちに浸っている。  腕の中で身体を弛ませている伊織の、汗に濡れた髪に鼻先を埋めながら俺は、この心地よさをもう少しだけ感じていたいなんて、願っている。  身体を離してしまうと、途端に消えてしまいそうな気がしていた。  ふと、視線を前に向けると、伊織の描いた 記憶の中の春の景色が視界に入った。 「……絵、完成したんだね?」 「……うん」  そう短く応えて、伊織は密着していた身体を少し離して肩越しに振り向き、その春の景色へ視線を廻らせた。 「……本当は完成したら、白く塗り潰すつもりだったんだ」 「どうして? もったいない、あんなに綺麗なのに」 「でも……、完成してみたら僕も……、もったいないと思った」  そう言って、伊織は俺の肩に頭を凭れさせる。 「そうだろ?」  伊織は、俺の肩口で「うん」と、小さく頷く。 「あの絵を描こうと思ったのは、昔、幸せだったことを思い出したかったから。でも……」  と、そこで言葉を区切り、伊織は細く長い息を吐く。 「でも、昨日父さんに、自分の子供だと思ったことはないと、言われてショックだった。だから、過去のこと全部消してしまおうと思ってた。だけど……」  だけど……と言った後は、段々とその声が涙混じりになっていく。 「……仕上げていくうちに、どんどん昔のことを思い出して……忘れたくないって……思ったんだ……」  俺の肩に鼻先を埋め、泣き顔を見せないようにしているのだろう。そういうところは、伊織らしいのだけれど。本当はもっと俺に甘えてほしいと思うけれど。  だけど、それでも、そんな伊織が本心を打ち明けてくれている。それだけでも俺にとっては嬉しい事だった。 「……忘れなくていい」  幸せだと思っていた記憶も……、それは全部、偽りのない事実だと思う。  俺は、去り際に独り言のように残していった、あの父親の言葉を思い出していた。  ――『どんなに愛しても、どんなに閉じ込めても……自分の意思で鍵を開けて飛ぼうとするのなら、それを留めることは、私にも出来ないのだから……』  あの人もきっと……、間違いも確かにあるけれど、深い処では自分の息子として愛していたと俺は思うよ。  「帰ろうか」  閉め切っていた窓を開けると、途端に外から強い風がカーテンをなびかせて、教室内に入ってくる。  さっきよりも高い位置から照り付ける陽射しに目を眇める。  汗に濡れた肌に、吹き付ける風は生暖かいけれど、それでも閉め切った教室内よりは、幾分心地良く感じた。  途中のコンビニで飲み物を買って車に戻ると、伊織はエアコンの温度を下げて、風向きルーバーに顔を寄せていた。 「汗を掻いてるのに、そんなに温度を下げたら風邪をひくぞ」  そう咎めると、「……暑い」と言って、ぷいっと横を向いてしまう。  冷たく冷えた缶をその頬にくっつけてやると、伊織は首を竦めながら飲み物を受け取った。 「先生が、あんな暑い所で、セックスなんてするからだ」 「悪かったな」  伊織は、応えずに、黙ってプルタブを開けて、飲み口に唇を付ける。  俺も同じようにして、コクコクと音を立てながら一気に喉へ流し込んだ。 「……僕は……やっぱり愛って、よく分からない」  此方を見ずに、伊織は呟くように、そう言った。 「そうか……」  顔は窓の方に向けていて、今は表情は見えない。  それでも……、  あの時……身体を繋げた時に、君がとても幸せそうに微笑んでいたのを、俺はちゃんと憶えてる。  今は見えないことも、時が過ぎて、振り返った時に分かる事もある。  その時に後悔ではなく、俺が君を愛した事を思い出してくれたら、それで良い……。

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