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 ―― ESCAPE(63)

「お腹空いたね。でも帰ったら、まずシャワーを浴びたいね」  マンションに着いて、そんな会話をしながらエレベーターを降りる。  エレベーターホールから通路に出ると、俺の部屋の前の手摺壁に、誰かが凭れて立っているのが見えた。  一瞬、鍵を掛けていない事を思い出してドキリとするが、その人物がゆっくりと此方へ顔を向けると、その不安は薄らいでいった。  代わりに、得体の知れない焦燥感みたいなものが込み上げてくる。 「……あ……」  俺の後ろを歩いていた伊織がその人に気付いて声を上げるよりも早く、俺は、その人が誰なのか分かってしまったのだ。 「はじめまして……。 岬 一哉(みさき かずや)と申します」  そう名乗った男は、深々と頭を下げた。  確かに伊織は、母親に似ているのだろう。  この人の顔のパーツ、ひとつひとつは、どこも伊織には似ていないように思う。  それでも、この人が伊織の実の父親だと分かったのは、  今日か明日に、迎えが来ると聞いていたからではなくて……。 「長い間、ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」  ダイニングでテーブルを挟んで座っている岬さんは、そう言ってまた頭を下げる。  温和な物腰や、柔らかい口調。  それだけで、この人が優しい人物なのだと感じる。  鈴宮さんとは、正反対のタイプだと思う。  俺がこの人を伊織の父親だと見た瞬間に分かったのは、迎えが来ると聞いていたからではない。  何と言えばいいだろう。  この人が醸し出す雰囲気だとか、仕草だとかに、伊織と同じものを感じる。  ここだと言えるところは何一つないのに、確かに伊織とこの人は血が繋がっているという事が分かる。  強いて似ている処を挙げるとするならば、色白なことだろうか。 (伊織は……、どう思っているんだろう。この、実の父親のことを)  岬さんが、鈴宮の父親との話し合いで、岬の家に伊織を連れていくと決まったことを話し終えると、伊織は、「分かりました」とだけ言って、目を伏せたまま、それ以上は何も言わない。  この岬という人に、初めて鈴宮さんが会ったのは、伊織が中学1年の時だったと訊いたけれど……。その時、鈴宮さんは感じたんじゃないだろうか。  俺にだって分かるのだから、ずっと伊織を育ててきたあの人は……きっとそれ以上に感じたはずだ。  いや、もしかしたら、俺なんかが思うよりも、もっと違うところでショックだったんじゃないだろうか。  伊織は、確かにこの人の息子で、自分は赤の他人だと、その事実を突き付けられて。 「……本当に良いのかい?」  伊織の気持ちを確かめるように、その人は穏やかな口調で話し掛けていた。  本人が嫌だと言えば、無理矢理に自分のところへ連れていくつもりはないのだろう。  俺も、伊織がこれからどうしたいのか、その気持ちが一番大切だと思うし、気になるところでもあった。 「……僕はそれで良いよ」 「本当に良いのか?」  あまりにも、あっさりし過ぎているような気がして、俺も横からそう声を掛けた。

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