300 / 330
―― ESCAPE(65)
「……岬さん……分かりました。その言葉に安心しました」
少しだけ……いや、かなり寂しいと思う自分もいるけれど、伊織にはきっとこの人が必要なのだと思う。
「失礼な質問をしました事を、どうぞお許し下さい」
「そんな! どうか頭を上げて下さい」
立ち上がって頭を下げる俺に岬さんは、
「伊織のことを親身に考えて下さって、本当にありがとうございます」
と、声を掛けてくれていた。
だけど俺は、本当に何かしてやれたんだろうか。
この人に、こんな風に言って貰えるような事は、結局何も出来なかったのに。
「あの……」
そんな大人二人の様子をずっと黙って見ていた伊織が突然立ち上がり、伏せ目がちに、どこか言い難そうに言葉を切り出した。
「……みさき、さん……」
その様子に、岬さんと俺は、思わず顔を見合わせる。
岬さんは、ちょっと嬉しそうに微笑んでいた。
「遠慮なく何でも言ってくれて良いよ。でも……その……岬さんじゃ、よそよそしいから、他の呼び方無いかな。名前とか……オジサンとかでも構わないけど……」
伊織は、少し面倒臭そうに伏せ目がちな視線を更に横に逸らせて、
「……じゃあ……カズヤさん」
と、岬さんの名前を聞こえるか聞こえない程の小さな声で呼んだ。
「……何だい? 伊織」
二人のそんなやり取りがなんだか微笑ましくて、少しだけ羨ましくて……俺は口元を緩ませた。
「あの……岬の家に行くのは、明日でもいいですか?」
伊織は漸く顔を上げ、岬さんに視線を合わせて、そう言った。
「勿論、良いよ」
「それで……少しだけ置いてある物を取りに行きたいので、明日鈴宮の家に行っても良いですか」
――ああ……そうか。
その言葉に、伊織が居なくなるという事が、今になって急に現実味を帯びてくる。
この部屋にも……学校にも……。もう会えなくなってしまうのだと。
「……分かった。じゃあ、君が明日一度家に戻る事も、僕が迎えに行く事も、鈴宮さんに連絡をしておくね」
伊織にそう応えた岬さんの声が、遥か遠い所で聞こえている気がしていた。
******
夕刻から怪しくなり始めた空は、夜の帳が下りる頃には、しとしとと雨を降らせていた。
晩飯を済ませて、後片付けをする。
俺ばかりが喋っていて、伊織は相変わらず口数が少ない。
いつもと、何も変わらない時間を、二人で過ごしていた。
でも……確かにお互いの心の中には、それぞれに変化を抱えている。
明日からは、この生活はガラリと変わる。
俺は、元に戻るだけだ。だけど、伊織にとって、その変化は大きくて不安もあるだろう。
俺は……それに比べたら……。俺の胸の奥の寂しさなんて、ほんの小さな痛みに過ぎない。
順番に風呂を済ませた頃には、午前中から強かった風と共に、雨も道路を激しく打ち付けている。
まるで、伊織が雷に怯えたあの夜のように。
冷蔵庫からビールを取り出して、プルタブを引き上げる音がやけに大きく響く。
その音は、余計に寂しさを増幅させて胸の内を震わせる。
冷えたビールをひと口だけ喉へ流し込み、缶をキッチンのワークトップに置いた。
ともだちにシェアしよう!