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―― ESCAPE(66)
寝室のドアをそっと開けると、ベッドサイドの淡い灯だけが点いていて、もうとっくに寝たと思ってたいた伊織は、ベッドの端に腰掛けていた。
「どうした? 眠れないのか?」
ベッドに歩み寄りながら声をかけると、伊織は声に出さずに、うん、と小さく頷いた。
隣に腰を降ろせば、ベッドのスプリングがキシリと音を立たせて僅かに揺れる。
伊織は、隣に座った俺の方へゆっくりと顔を向け、上目遣いに見上げてきた。
「このまま、此処で暮らすという選択肢は、ないのかな」
「……え?」
それは、思いも寄らない選択肢だった。伊織が、そんな事を考えていたなんて。
「……先生は、僕が居なくなっても寂しくない?」
「……それは……」
それは寂しい。だけど、そう思うのは、俺がこの子のことを、生徒以上の関係に思ってしまっているからだ。
出来るなら、何処へも行かせたくないと思う。
ずっとこのまま、この部屋から出したくないとさえ思ってる。
学校にも行かせたくない、あの混み合う電車にだって乗せたくない。
もう誰にも、伊織を性的な目で見られたくない。
もう誰にも、触れさせたくない、自分だけの物にしてしまいたい。
そんな黒い感情が、心の奥で渦巻いていることを、この子に知られたくない。
これ以上一緒に居れば、きっと……、今度は俺が伊織を閉じ込めてしまう。
そして、君は、そうとは知らずに……、『情』という感情に束縛されてしまうんだ。
「僕は……寂しい」
「俺も……だよ」
柔らかくて細い髪にそっと触れて梳くように撫でると、胸の奥が締め付けられる。
桜色の唇を、指先でなぞる。
もう一度だけでも、この唇に口づけたら……、きっと俺の想いは止まらなくなる。
「先生に会えなくなるのも、あの美術室に通えなくなるのも……全部寂しい」
「……俺も同じだよ」
「……じゃあ」
「だけど、君は、俺を愛しているわけじゃないんだよ」
言いかけた伊織の声に、被せるようにその言葉を遮った。
少しだけビクッと肩を震わせて、伊織は俯いて口を噤んでしまう。
君を愛おしく思う。
だけど、はっきりと言わなければ。
それは、君の為でもあるけれど、自分自身に言い聞かせなければいけない。
「昨夜、運命の糸は無理やり手繰り寄せなくても、きっと繋がってるなんて言ったけど、それでも先ずは相手を想い、歩み寄らないと、何も始まらない」
このまま此処で一緒に暮らしても……、
「お互いを想い合い、お互いを愛し合うから、相思相愛と言うのだろ?」
今は良くてもきっと、近い未来には、お互いを傷付けてしまうから。
――相 を想い、愛 想う。
そんな関係には、きっとなれない……だから……。
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