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 ―― ESCAPE(67)

 暫く続く沈黙の中で、強くなってきた雨風の窓を打ち付ける音だけが、二人の間に流れていた。  遠くに雷鳴が小さく聞こえている。 「これからは、もっと広い世界を見ることが出来るんだから、俺なんかに縛られなくても良いんだよ」  これから君は、少しずつ色んなことを経験して、成長していく。  相手を信じて、想い、愛 寄り添う。そんな関係の人と巡り合えるように。 「でも、僕はきっと……、もう今以上に誰かを好きになんてならない」 「そんな事はないよ。俺に愛されてるって、分かったんだろ?」  そう問えば、伊織は少し間を置いて、小さく頷いた。 「じゃあ、大丈夫だよ」  そう言って、俯いている伊織の頭をくしゃくしゃと掻き混ぜるように撫でた。 「……もう……先生には会えないね」  そんな風に言われたら、抱きしめたくなってしまう。 「これからも会おうと思えば、いつでも会えるよ。――俺は君の担任だからね。これからもずっと」  俺は狡い大人だから、そうやって保険をかけておく。  もしもいつか、また君が傷付いて、その羽根を休めたくなった時は、いつでも帰ってこれるように。 「ずっと、君のお節介な担任でいさせてくれないか」 「……やっぱり……担任としては、責任を負いたくないから、そんな事を言うんだね」  そう言ってクスッと笑い声を零し、伊織は俺の肩にそっと頭を凭れさせる。 「まあ……、そうだよ」  俯き加減に、俺の肩に凭れている伊織の表情は、覗き込まなければ見えない。でも、その表情は、見なくても分かるような気がした。 「そろそろ寝よう。明日も早いからね」  ベッドサイドの灯りを消して、二人で布団に潜り込む。  並んで寝ているお互いの肩の間は、今までと違い、微妙な隙間が開いている。 「伊織……あの人……岬さんのこと、どう思ってる?」  突然一緒に住むことになった実の父親のことを、伊織がちゃんと受け入れられるのか、それだけはまだ心配だった。  伊織は小さく頷いて、 「あの人、前にね……」  と、鈴宮の家を出る少し前に、岬さんに会った時の事を話し始めた。  暗くて表情はよく分からないけれど、その声はどこか穏やかで、楽しそうに聞こえる。 「……それでね、僕におじさんの話に付き合ってもらえると嬉しいんだけど。なんて言うんだ」 「それで伊織は何て答えたんだ?」 「……別に構わないけどって、言っておいた」  そして伊織は、最後にポツリと呟くように付け加える。 「僕……あの人のこと嫌いじゃないよ」 「そうか……」   伊織の話しぶりに、きっと大丈夫なんだなと思えて、何だかちょっと胸の奥が暖かい。  岬さんの言った言葉を思い出しながら、俺は目を閉じた。  微妙な間隔で寝ている身体の温度が伝わってくる。だけどもう、その身体には触れてはいけないような気がしていた。  雨風が更に強さを増して、雷鳴が近付いてきている。 「……先生……」  隣で、伊織が僅かに動く気配がして、スプリングが揺れた。 「どうした? 雷が怖い?」  うん……。と、頷く小さな声がした途端、稲光がカーテンの隙間から射し込んでくる。 「――あ……」  短く声を上げ、俺のパジャマの肩を掴む伊織の指。  その瞬間、俺は腕の中に、震える華奢な身体を閉じ込めていた。 「……先生。やっぱり僕は……」  腕の中で、伊織は声を詰まらせる。 「やっぱり……僕は、心細くなると、またこうやって先生を利用してしまう」  小さく肩を震わせながら、不安気に言葉を紡ぐ伊織の背中を、思わずきつく抱きしめてしまう。   これくらいの事は、利用してるとは言わないよ。  君の気持ちをちゃんと分かっているから、信じてる。  「大丈夫だ……、俺は君を好きだから……」  と、言った瞬間、伊織の身体の震えが止まった。  そして、雷鳴が響く中、俺の胸に顔を埋めている伊織の声が聞こえてきた。  それはまるで、独り言のように。  ――思い出した……あの時、最後に聞いた母さんの言葉を……と。

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