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 ―― ESCAPE(68)

 その夜は、真綿でくるむように大切に、腕の中に華奢な身体を閉じ込めて眠った。  初めてこうして眠った時、あんなに不安定だった魂は、今はこんなに落ち着いている。  まだ解決しきれていない想いもあるかもしれないけれど、きっともう、雷に怯える夜はこない。  満ち足りた寝顔が、そう言っているように思えた。  俺は……、なんだか、明日巣立っていくヒナを見守る親鳥のような気分だった。  ****** 「――伊織!」  朝目が醒めたら、腕の中にいるはずの伊織の姿がなくて、俺は、慌てて飛び起きてリビングへのドアを開いた。  その瞬間、昨夜セットしておいた炊飯器から、御飯の炊き上がる匂いが鼻腔を擽る。  トントンと、小気味良く聞こえてくる包丁の音。 「……おはよう」  抑揚のない、いつものハスキーな声が聞こえてホッと胸を撫でおろした。  伊織は、キッチンに立っていた。  キッチン横の小窓から射し込む朝日に、伊織の柔らかい髪が透けて煌めいている。 「おはよう……、早いね」  俺は、焦っていた事を隠そうと、平然を装ってそう応えた。  いつもと同じようで、いつもとは、少しだけ違う朝。  伊織が俺よりも先に起きて、朝食を作っていることなんて、今まで一度も無かった。 「何、作るの?」  カウンターから覗き込めば、大根を銀杏切りにしているところだった。 「……味噌汁」 「伊織、味噌汁好きだね」  ここに来た日も、味噌汁だけはちゃんと食べていた。 「別に……、好きっていう訳じゃないけど……」  と、君は素っ気なく言うけれど。 「な、俺に作らせてくれないか? 味噌汁」  こうして一緒に食べる最後の朝だから。君の好きなものは、俺が作りたい。 「……別にに良いけど……先に顔洗ってくれば?」 「あはは、そうだね」  言われて、自分がまだパジャマを着ていることに気が付いて笑うと、伊織は光が溢れるような眩しい笑顔を見せてくれた。  一緒にキッチンに立って、一緒に朝食の準備をする。  いつもと同じようにしているつもりなのに、おかずの種類は、いつもよりも多い。  いつもより、ちょっとだけ豪勢な朝食が並ぶ食卓。  明日から、そこには誰も座らないのだと思うと、知らずに伊織のことをじっと見詰めてしまっていた。 「……何?」 「……いや、何でもない」  開け放した掃き出し窓から、夏の朝の爽やかな風がカーテンを揺らし、二人の間を静かに流れていく。 「……美味しい」  味噌汁をひと口飲み込んで、伊織はそう言って俺を見上げてくる。 「そうか? 良かった」  他のも、もっと食べるように促せば、「作り過ぎだよ」と言いながらも、伊織は他のおかずも食べてくれていた。  時々、美味しい。と、嬉しい言葉をくれながら。 「ごちそうさまでした」  伊織は、そう言って箸を置き、窓の外へ視線を廻らせる。  昨夜の雨が嘘のように、清々しい空を眺めながら、 「先生、お願いがあるんだ」  と言って、視線を俺へと戻した。

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