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 ―― ESCAPE(69)

「お願い?」  そう訊き返せば、伊織は、うん、と小さく頷く。 「家に戻ったら、少し荷物の整理をしたくて……だから、その間にあの絵を学校に取りに行って欲しいんだ」 「ああ、あの絵。そうだね、じゃあ君を家まで送って行って、そのまま学校に取りに行くよ」  咄嗟に頭の中で、岬さんが迎えに来る時間までに、俺が学校に行って戻ってこれるか計算をする。  ――ギリギリ間に合うってとこか……。  だけど、伊織は小さく首を横に振って、「違うんだ」と言う。 「僕、一人で電車で帰りたい。だから、何処か途中の駅で降ろして欲しいんだ」 「え……? いや、でもそれは……」  それは、何となく心配だった。  伊織が、あの家にひとりで行って、それでもし……、何かあったら……。  それもあるけれど、もう一つ心配なのは……。  嫌な考えを頭に過ぎらせてしまい口籠っている俺に、伊織は、クスッと上目遣いに小さく笑う。 「先生、変な事考えてない? 大丈夫だよ、ちゃんと帰るから」 「あ、いや……、別に変な事なんて考えてないけど……」  考えている事を読み取られてしまい、慌ててそう応えたけれど、やっぱり心配なのは変わらない。 「岬の家に行ってしまったら、もう当分、あの階段からの景色を見ることもなくなるから」  だから、駅から一人で歩きたい。と、言葉を続けて、伊織は俺に視線を合わせる。 「うん……、でも……」  伊織の気持ちも俺には解る。信じていない訳でもないんだけど。俺は快く承諾することができずに、何か他に良い方法が無いか、考えを巡らせていた。  そんな俺に、伊織は「僕を信じてよ」と、言って柔らかく、陽だまりのような笑みを零す。そして懐かしむように、目を閉じて言葉を続ける。 「学校の屋上から見える景色は、あの階段から眺める景色に似ているんだ。だから、今までも、よくあのフェンスによじ登ってた。手摺り壁よりも高い所まで登ると、風が凄く気持ちが良くて。どこまでも飛んで行けそうな気がしてた」  そう話す表情に、フェンスに登っていた伊織の姿が重なる。  俺は、あの時焦っていて、そんな表情にも気が付かなかった。 「あの時の、先生の慌てっぷりを思い出すと笑っちゃう」  そう言いながら目を開け、俺を見て、悪戯っぽく笑う。 「凌も……、先生みたいに血相変えて、フェンスに登る僕を止めに来てくれた事があるんだ」 「速水くんが?」 「このフェンスは、古くてガタがきてんのに、もしも落ちたらどうするんだって、心配してくれてた」  そうか……、速水も。彼もまた、俺と同じように伊織のことを大切に想っていたのだろう。 「本当に、もう消えてしまいたいと、思っていた時もあったけど……」  そこで、伊織は一旦言葉を区切り、息を吐く。  そして、真っ直ぐな眼差しを向けてきた。 「僕は、死んだりしないよ」  澄んだ瞳は、嘘なんかじゃないと、俺に伝えてくる。 「またいつか、もっと成長して、大人になって、あの景色を見に戻って来たいから」  伊織の言葉は、生きる意志を、未来を、約束する。 「今日の景色をずっと憶えていたい。……だから、ひとりで、あの階段を上りたい」

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