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―― ESCAPE(70)
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学校は今日も休日で、活気溢れる部活の声も聞こえてこない。
昨日と同じ場所に車を停めて、閉まったままの門扉の前に立って、携帯を取り出した。
どうしても伊織を一人で帰らせる事が心配で、途中、適当な駅で伊織を降ろした時に、この携帯を持たせようとしたのだけど……。
『伊織、これ、持っててくれないか』
『先生、心配し過ぎ』
助手席のドアを開け、半分降りかけていた伊織は、肩越しに俺を見て呆れた声でそう言った。
――もう今頃は、鈴宮の家に着いた頃だろうか。
なんて、無意識のうちに鈴宮の家に電話をしようとしている事に気付いて、自嘲してしまう。
本当に、心配し過ぎだ。
――そうだ……、彼に連絡しておかないと。
一旦、鞄に入れようとした携帯をもう一度握り直して、大谷のアドレスを呼び出した。
電話をかけても繋がらないので、一応メールを送信して、伊織が今日引っ越すという事だけを伝えておく。
大谷は、多分、伊織の実の父親が別にいるということを知らないはずだ。
大谷がメールに気が付いて、すぐに鈴宮の家に向かってくれれば良いが……と思いながら、俺は昨日と同様に、裏門の門扉をよじ登って中へ侵入した。
美術室も、昨日帰る時と何も変わらない。
いつもと同じように、隅にはキャンバスを置いたイーゼルが、こちら側を背にしてひっそりと佇んでいる。
昨日と同じように、ゆっくりと床を踏みしめて、俺は其処へ歩み寄っていく。
イーゼルの後ろから回り込むようにして、絵の前に立った。
夏休み、ここで一緒に過ごした日々が蘇って、胸を締め付ける。
昨日と同じように、涙で視界が滲む。
違っているのは……、
外の風が穏やかなことと、伊織が、もう此処には来ないこと。
それから……、俺が零した涙の理由も。
まだ表面が乾き切らない絵を持ち運び用のクリップで止め、キャンバスバックに入れて、車の後部座席に固定させたところで携帯が鳴った。
『――先生、伊織が引っ越しって、どういう事ですか?!』
かなり焦った様子の大谷の声が、携帯の向こうから聞こえてくる。
まあ、無理もない。
なるべく簡単に、分かるように説明をして、早めに通話を切り上げた。
『俺も、今から直ぐに伊織の家に向かいます!』
ちょっと泣きそうな大谷の声を思い出しながら、エンジンを掛ける。
想うのは、伊織のこと。
その想いはきっと、それぞれに違う。
大谷も、俺も、そして、鈴宮さんも。
でも、これは決して別れなんかじゃない。
――『またいつか、もっと成長して、大人になって、あの景色を見に戻ってきたいから』
伊織の瞳は、もう明日を見詰めている。
そして、未来を約束してくれたのだから。
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