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 ―― ESCAPE(71)

 **  坂道の多い閑静な住宅街は、山が近いせいか緑が多い。  木洩れ陽の落ちる、なだらかな登り坂の途中を右に曲がり少し進めば、伊織の家の屋根が左側前方に見えてくる。  家の前に通っている、あまり広くない道路を挟んでガードレールの向こう側は、傾斜地形の雑木林。  その向こうには、伊織の好きな街の景色が広がっている。  車をゆっくり進ませていくと、ガードレールの途中で、伊織の好きな階段の降り口がある。  今日伊織は、久しぶりに此処を上って、家に帰ってきたんだ。  僅かに見える雑木林の向こう側の景色にちらりと視線を流しながら、ツツジやサツキを隙間に植えた石垣のある、家の前に車を停めた。  他に車は見当たらないから、岬さんはまだ着いていないのだろう。  助手席側の窓を開けて、2階を見上げれば、伊織の部屋の窓は開け放たれていた。  部屋の中で、レースのカーテンが風に揺れている。  軽くクラクションを一回鳴らして、もう一度2階の窓を見上げてみれば、一呼吸置いて伊織が窓から顔を出した。 「――先生!」  光が溢れるような笑顔で、窓から身を乗り出して手を振る姿に、俺も思わず顔を綻ばせながら車の窓から手を振った。  伊織は直ぐに顔を引っ込めて、姿が見えなくなってしまったけれど、引き戸が開いている玄関からバタバタと階段を下りてくる足音が聞こえてきていた。 「ありがとう、先生」  後部座席から、キャンバスバックを取り出しているところに、伊織が後ろから声を掛けてくる。 「ああ、いや、間に合って良かった」  言いながら振り向くと、伊織の顔は朝よりももっと何かから解き放たれたように輝いて見えた。  鈴宮さんと、会って何か話せたんだろうか。  伊織は、キャンバスバックを俺の手から受け取ると、中からクリップを外して自分の絵だけを取り出した。 「このバックごと、持って行っていいよ」 「あ、ううん、いいんだ。ちょっと待っててくれる?」  そう言うと、絵を持って家の中へ戻っていく。  俺は、意味が分からずに、ぼんやりと伊織の後ろ姿を見送っていた。  ああ……でも、何だか……。  その表情や声の調子に、心が軽くなる。  きっと、伊織はもう大丈夫だ。  嬉しい気持ちと、少しだけ寂しい気持ち。俺の役目はきっとこれで終わったのかもしれない……と。  一旦家の中に戻ってまた直ぐに出て来た伊織のその手には、小さな鞄ひとつだけしか持っていない。 「荷物、それだけ? あの絵は? 置いていくのか?」 「うん。身の回りの物だけで良いんだ。あの絵は此処に置いていく」 「そうか……」  うん。と、小さく頷いた瞬間、持っていた鞄をアスファルトの上に落とし、細い腕を俺の首に回して、伊織はつま先立ちで抱き付いてきた。 「……伊織?」  俺は少し驚いて、つい抱き締めかけた手が、置き場に困り宙に浮いたままになっていた。 「……僕は、あの美術室でのこと……、先生に教えてもらったこと、一緒に過ごしたこと……先生のこと、全部忘れないから」  耳元に落とされた言葉に、胸が熱くなる。 「ああ……、俺も忘れないよ」  生徒にそんな事を言われて、いい大人が泣きそうになっている事を悟られないように、俺は伊織の後頭部を撫でながら、そう応えた。 「……ありがとう先生……」  ――先生に、出会えて良かった……。  ……微かに……そう聞こえたような気がした。

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