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 ―― ESCAPE(72)

「――いおりーーっ!」  その時、遠くから伊織を呼ぶ声が聞こえてきた。振り向かなくてもその声の主が誰なのかは分かる。  首に絡められていた腕がするりと外れ、伊織の身体が俺から離れていく。  急に風通しの良くなった首周りが、妙に淋しく感じる。 「……慎矢」  駅から、あの階段を一気に駆け上って来たのだろう。  大谷は、肩を上下させながら荒い息の下から、「間に……合った」と、苦しそうな声を出す。 「先生が、慎矢に知らせてくれたの?」 「ああ、知らせないと、後で俺が怒られそうな気がしたからね」  そう応えて、俺は肩を竦めて見せた。 「伊織……、引っ越すって……急に何処へ?」  大谷には、伊織が家を出る事になり、急だけど今日引っ越すということしか伝えていない。  伊織は、チラリと俺へ視線を流してから大谷の方へ向き直る。 「ごめん慎矢。急に決まったから、伝えることが出来なかった」 「いや、それはいいんだけど……」  その時だった。  近付いてきた一台の車が、三人の立っている手前でゆっくりと停車する。  俺と伊織は、ほぼ同時に大谷からその車へと視線を移した。  大谷も、言葉を途中で止めて不思議そうに振り返る。  運転席のドアが開き、運転手がすかさず後ろへ回り、後部座席のドアを開ける。 「申し訳ありません、遅くなってしまいました」  後部座席から降りてきた岬さんは、柔らかい物腰でそう言いながら会釈した。 「いえ、俺も来たばかりです」  そうですか? と、言いながら、岬さんは伊織に歩み寄っていく。 「鈴宮さんはいらっしゃるかな。ご挨拶をしておきたいんだけど」 「書斎にいるよ。中にタキさんがいるから、声を掛けたら呼んでくれると思うけど」  そう言って、玄関を見遣る伊織と一緒に、岬さんも同じ方向へ視線を移した。  その時の二人の仕草に俺は……やっぱり似ているな……と、心の中で思う。 「伊織……、あの人……誰?」  玄関へ入っていく岬さんの後ろ姿を見送りながら、大谷は少し不思議そうに伊織に尋ねている。 「……僕の、父親だよ」 「えっ?」  伊織の口から、あまりにも自然に出てきた父親という言葉に、大谷は驚きの声を上げた。 「え……え? だって……」  岬さんが入って行った玄関と伊織を交互に見て、次の言葉がなかなか出てこない。 「あの人が、本当の父親なんだよ」  驚いている大谷に、伊織はそう言ってふわりと微笑みかける。 「……そうなのか……。でも……」  と、そこまで言いかけて、何かに気付いたように大谷は言葉を止める。  真剣で、それでいて優しい眼差しで、伊織に視線を合わせた。 「そっか。伊織にとって、これは一番良い事なんだな」  大谷は、伊織が何も言っていないのに、納得したようにそう言いながら太陽のように明るい笑顔を見せて、伊織は、それに応えるように、あの光が零れるような笑みを浮かべながら頷いていた。 「俺は、いつでも伊織の味方だからな。悩みとかあったらいつでも連絡してこいよ」  夏の暑い陽射しの下で、二人の頬はうっすらと紅く染まっている。  交わした約束は、これは別れなどではなく、きっと新しい始まりなのだと思わせてくれる。  そう、これは、決して悲しい別れなんかじゃないから。

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