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―― ESCAPE(73)
*
「じゃあ、そろそろ行こうか。荷物はこれだけかな?」
戻って来た岬さんがそう言うと、直ぐに運転手がその鞄を受け取りにきた。
だけど伊織は、首を横に振る。
「あ、いいんだ。これくらい自分で持つから」
そう言って、本当に最小限の物しか入ってなさそうなくらい小さな鞄を大切そうに胸に抱え込んでいた。
岬さんは、そんな伊織を愛おしそうに見詰めてから、俺と大谷の方へ向き直り深々と頭を下げる。
「では、これで失礼します。本当に伊織がお世話になり、ありがとうございました」
そして伊織の背中をそっと促すようにして、車の方へ歩き出す。
伊織は少し名残惜しそうに、俺と大谷の方を肩越しに振り返っていた。
「元気で……」
俺は、そんなありきたりの言葉をかけるのが、やっとだ。
「あっ、待って、伊織!」
大谷が、突然何かを思い出したように、車に乗り掛けた伊織を追う。
「……これ、伊織にやるよ」
そう言って、ポケットから小さな黒い巾着袋を取り出して、伊織の手に握らせている。
「……慎矢……これ……」
手の中にある巾着袋を見て、伊織は驚いた表情で大谷を見上げた。
「ダメだよ、これは慎矢の大切なロザリオじゃないか」
そう言って伊織がそれを大谷の手の中へ押し返すと、大谷は、袋の中からロザリオを取り出して見せた。
「いいんだ。俺のは他にもあるから」
数珠状になったアクアマリンと、その先に付いている十字架が、夏の陽射しにきらきらと煌めいていた。
「アクアマリンは、健康運を向上させる石なんだって。食欲がない時に胃の辺りにかざすと良いらしいよ」
――ちゃんと飯食えよ。と続けながら、巾着袋の中にロザリオを戻して、もう一度それを伊織の手に握らせた。
その手の中の巾着袋を伊織は俯いて暫くの間じっと見詰めていた。
伏せた長い睫毛がゆっくりと上がり、少し潤んだ瞳が大谷を見上げる。
「ありがとう、大切にする」
「うん」
少し声を震わせながら、短く交わされた言葉。
「……じゃあ」
伊織は微かに微笑んで、大谷から離れて数秒間頭を深く下げた。そして、さっと後部座席に乗り込んでしまう。
バタンとドアの閉まる音が胸の底に響く。
寂しさを感じる心と、心配な気持ちと、新しい明日へ自ら進もうとしている伊織を応援したい想いと。そんな色々なものが混ざり合った音。
閉められたドアに大谷と二人で駆け寄ると、窓が静かに下ろされた。
「伊織! 落ち着いたら絶対連絡してこいよ」
エンジンがかかり、今にも動き出しそうな車を引き止めるように、大谷が声をかけると、伊織も少し窓に身を寄せて、それに応えた。
「連絡するよ。慎矢とした約束、絶対全部守るよ」
「おっ、おう!」
少し涙声な大谷に、「何、泣きそうになってんの、馬鹿みたい」と笑ってから、伊織は俺へ視線を移した。
「伊織、絵は、ずっと続けるんだよ」
俺は、何も気の利いたことも言えなくて、何を言えばいいのか言葉が見つからなくて、それくらいしか言えなかったのに。
なのに……、伊織はあの光が溢れるような笑顔を見せてくれた。
「また、絵を描いたら……先生、見てくれる?」
「ああ……、ああ! 勿論だよ」
俺にとって、これ以上嬉しい言葉は、他に無い。
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