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 ―― ESCAPE(74)

「……行っちゃったね」  遠く離れていく車を見送りながら、大谷が寂しそうにポツリと漏らした。 「……ああ」  動き出した車のリアガラスの向こう側で、後ろをふり向いていた伊織の顔の表情も、どんどん小さくなって見えなくなってしまう。 「先生、泣きたかったら泣いていいよ」  伊織が乗った車はもうとっくに影も形もないのに、まだ大谷は、ずっと向こうの曲がり角に視線を留めたままでいる。  大谷だけでなく、俺も……そこから目を離せずにいた。 「……何言ってるんだ。泣いてるのは君の方じゃないか」  漸くチラリと大谷へ視線を移すと、彼は遠くの角を瞬きもせずに見つめていて、その目からは大粒の涙がポロポロと零れていた。 「……伊織、ちゃんと連絡してくるかな……」 「約束は守るって、言ってただろう?」  泣いている大谷の頭を引き寄せて俺の肩に凭れさせると、彼はそのまま肩先に顔を埋めた。  シャツの肩が、じわりと熱を持って濡れていく。 「きっと、また直ぐに会えるよ。友達なんだから信じてあげなさい」  そう言って、泣いている大谷の頭をポンポンと宥めるように軽く叩いた。  それは、自分にも言い聞かせるように言った言葉だけど、  でも、俺は……大谷とは違う。  俺と伊織は、友達じゃなく、教師と生徒だから。  ずっと、教師と生徒でいい。  そこから近付くことも、離れることも、きっとない。  ……だから、大谷のように、また直ぐに会えるなんて期待はしていない。  教師と生徒の関係は、そういうものだと分かっているから。  ――いつかまた、偶然にでも会うことが出来たならそれでいい。  その時、伊織を取り巻く環境が平穏で幸せなら、それでいい。  そして、またあの笑顔を見せてくれる事を願っている。  ツツジやサツキを隙間に植えた石垣の上に建つ家へ、視線を巡らせる。  開いたままの玄関からは、見送る姿も見えない。  ――あの人は今、どう思っているんだろう。  愛した妻に瓜二つの血の繋がらない息子を、歪んでしまった愛で束縛してしまっていた父親。  それでも、心の中では俺なんかには分からない葛藤があったのかもしれない。  ――いや……、  俺には、あの人の胸の内なんて到底理解出来ない。  全部を知らないのに、安易な想像で他人を決めつけてはいけない。  でも……、  あの人も……、伊織の幸せを願っていて、いつかまた、あの光が溢れるような笑顔に会いたいと思っていると信じたい。 「……伊織は、心から笑ってたよね?」  大谷はそう言うと、漸く顔を上げて、泣き濡れた目を手の甲でゴシゴシと擦っている。 「ああ、そうだね」 「キラキラして、まるで天使みたいだったな」 「そうだね」  大谷の言葉に、自然に口元が綻ぶ。  そう、光が溢れるようなあの笑顔は、大谷の言う通りかもしれないな。    二階の窓の内側で、レースのカーテンが風に揺れている。  見えない枷を取り払い、この家から、あの窓から、伊織が飛び立って行ったあとのように……。  ――先生に、出会えて良かった……。  伊織が言ってくれたあの言葉……。  生徒にそう思ってもらえる事が、俺が教師になった頃の目標だった。  天使と暮らした短い夏。  俺は、少しでも、伊織の未来を守ってやることが出来たんだろうか。  ******  ――『先生、僕、美大を受験しようと思うんだ』  伊織がそう言って、俺に相談をしてきたのは、翌年の桜の咲く頃だった。  第七章ESCAPE  ――(side fujino)end

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