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第八章:至愛(1)

 ――epilogue『至愛』(side iori)  たとえこの先に、絶望の朝が訪れたとしても…… ――  **********  ゆっくりと、車が僕の生まれ育った家から離れていく。  見送ってくれているのは、  先生と、慎矢と……、  僕が小学校に入学した時に記念に植えた、庭の桜の木と、  車が動き出す時に、二階の窓辺で揺れるレースのカーテンのその奥から感じた視線。  全部、どんどん小さくなって、  角を曲がって大通りに出ると、もう見えなくなってしまう。  さようなら。  また、いつか……。 「また、いつでも帰ってこれるよ」  角を曲がっても、まだ後ろを向いたままの僕に、隣に座っている人は優しい声でそう言った。 「荷物、少ないね。何か大切な物が入ってるの?」 「……別に」  必要最低限の身の回りの物と……それから……。 「一枚だけ残っていた、母さんの写真を持ってきたよ」  僕がそう言うと、その人は分かりやすいくらいに嬉しそうな顔をする。 「見せて貰ってもいいかな?」 「いいよ」  ずっと、勉強机の一番上の鍵の掛かった引き出しの中に、それを入れてある事すら忘れかけていたけれど。  鞄の中から、写真立てに入れたままの母さんの写真を取り出して渡すと、その人は小さく溜め息のような声を洩らした。  久しぶりに見たその写真は、引き出しに鍵を掛けたあの頃よりも、もっと僕に似ている。 「……鈴宮さんには、会えたかい?」 「……いいえ。……カズヤさんは? 父さんに会えたの?」  質問を返すと、その人は微かに苦笑した。  それは、僕がカズヤさんと名前を呼んだからなのか、それとも父さんに会えなかったからなのか。 「僕も、会っては貰えなかったんだ。だから、タキさんに宜しくお伝えくださいと(ことづ)けてきた」 「……そう」  短く応えて、僕は窓の外へ視線を移した。  車は、川沿いの道を、海の方向へと下って行く。    ――『お前を私の本当の息子だと思ったことは一度もない』  あの時、父さんに言われた言葉に、もう何もかも失くしたと絶望したけれど。  僕は、あの絵を仕上げながら思い出したんだ。  流れていく景色の中に浮かんでくるのは、桜並木の遊歩道を両親と手を繋いで散歩したあの頃のこと。  夏祭りに浴衣を着て、花火を観たあの頃のこと。  あまりにも人が多すぎて、大人の腰までも身長がない小さな僕は、人の波に揉まれて息苦しくて。  そんな時は、父さんが肩車をしてくれた。  夜中に高熱を出した僕を大きな背中に負ぶって、大通りまでしか来てくれない救急車まで走ってくれた。  僕の頭を撫でてくれる、優しくて大きな手。  僕の好きなあの階段から見える景色も、最初に教えてくれたのは父さんだった。  僕は……小さい時から、父さんが大好きだった。  ――父親として……。  そして、確かに父さんも僕を実の子供として見ていてくれた。……優しい瞳で。  あの頃の僕達は、確かに幸せな家族だったんだ。  だけど、いつの頃からだろう、父さんは母さんの心を疑っていた。  今、僕の隣にいる、岬一哉のことを、母さんが忘れられずに想っていると。  あの嵐の日、とうとう母さんは、父さんの束縛に堪え切れずに、逃げようとしたのかもしれない。  でも、あの事故が起こる前、僕は聞いたんだ。母さんの本当の気持ちを。  ――『でも……父さんのこと置いて行ったら、また怒られない?』 『――大丈夫よ……だから…………』――  その事を最後にどうしても父さんに伝えたくて、今日、あの家に戻った。  本当は、荷物の事なんて、どうでも良かったんだ。  

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