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 ―― 至愛(2)

 ――――――  ――  久しぶりに帰った家は、引き戸を開けると、真夏だというのに相変わらず涼しい風が、北の窓から玄関へと流れてくる。 『ただいま……』  小さい声でそう言うと、タキさんが慌てた様子で台所から顔を出した。 『伊織坊ちゃん……、おかえりなさい』  今にも泣きそうな顔で、タキさんはそう言って出迎えてくれる。 『……父さんは? いる?』 『はい、書斎にいらっしゃいますよ』  昨日、岬の父親が連絡してくれているはずだったから、もしかしたら父さんは僕に会わないように、家には居ないんじゃないかと、少しだけ心配していたけれど。  ――居てくれた。  タキさんの言葉に返事をするのも忘れて、僕は急いで靴を脱ぎ、書斎へと向かう。  ――父さんに会える。  そう思っただけで嬉しさと……、少しばかりの不安が胸の内で鬩ぎ合っているような気がした。  ――また拒絶されたらどうしよう。  そんな考えが頭に過るけれど……、僕はもう、父さんの本心を見抜いているのだから怖くなんかない。  掃き出し窓が続く庭に面した広縁を進み、一番東の奥の部屋の前に立ち、ドアを控えめにノックして、『父さん』と声を掛けた。  中から返事は返ってこないけれど、書斎の椅子が小さな音を立てた。  頭の中で、革張りの大きな椅子ごと、くるりとドア側を向いた父さんを想像できる。  ドアを開けてもらえなくてもいい。ただ母さんの想いを父さんにちゃんと伝えたい。 『父さん、僕、思い出したんだ。あの事故の直前に母さんが言った言葉を』  それでも、部屋の中からは返事はない。  これを伝えたからと言って、何かが変わるわけでもない。  それに、父さんは、最初から知っていたのかもしれない。  ――大丈夫よ……。  ……お父さんのこと、大好きだから……。  ……お父さんの気持ちをちゃんと分かっているから、……きっと迎に来てくれると信じてる――  父さん……、母さんはちゃんと父さんだけを見つめて、愛していたよ。  ギシっと音が聞こえてきて、父さんが椅子から立ち上がったのが分かる。  床を踏みしめて、此方へゆっくりと近付いてくる気配がする。  だけど、その気配は途中で止まってしまう。 『……そうか』  漸く返ってきた低い声に、胸が締め付けられた。 『父さん……、ここ開けて。顔を見せて』  あの大きな手で、頭を撫でてもらいたい。  最後に、元気で……と言って、あの逞しい腕に抱きしめてもらえたら……。  だけどその望みは、叶えられることは無かった。 『……今、ここを開けたら、私は今度こそお前を……』  聞こえてきた言葉は、そこで途切れてしまう。 『……父さん!』  ドアに縋って、耳を擦り付けても、父さんの気配はそれ以上此方に近付いてはこない。  そしてまた、窓際の机の方へ遠退いていくのが分かる。 『僕は……、僕も父さんのことを大好きだよ。これからもずっと……』 『……早く行きなさい』  最後に聞こえてきた声は、優しくて、暖かく僕を突き放した。

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