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―― 至愛(3)
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先生が取りに行ってくれたキャンバスを窓の横に立て掛けて、僕は自分の部屋をぐるりと見渡した。
胸に押し寄せてくる思い出を振り切るように、鞄の中に身の回りの物を適当に詰め込んだ。
部屋のドアを開けると、窓からの爽やな風が抜けていく。
カタン、と何かが倒れた音に振り返ると、勉強机の上のメモスタンドに挿してあるペンが、風になびいたカーテンに当たって転がっていた。
勉強机に近付いて転がっているペンを元の位置に戻せば、意識は机の一番上の引き出しに引き寄せられた。
本棚に隠してあった鍵を取り出して久しぶりに開けてみると、あの夏の日に入れた時のまま、母さんの写真立ては、裏を向けた形で引き出しの中にあった。
『ごめんね、母さん……』
こんな所に入れて隠して、僕は母さんの代わりになろうとしていたんだ。
なれる筈もないのに。
そうすることで、僕はずっと父さんの傍に居られると思い込んでしまっていた。
母さんの写真も鞄の中にそっと入れて、僕は今度こそ部屋を後にして、玄関へ向かった。
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『……あの……伊織坊ちゃん』
靴を履き、もう家を出ようとしているところで、タキさんが声を掛けてきた。
『……旦那様は……伊織坊ちゃんのこと、本当は一番大切に思っていらっしゃるんですよ』
『……うん』
僕は、タキさんに真っ直ぐに向き直り、頷いた。
……分かってる。
思い出したから。
僕たちは、本当に家族だった。
父さんも僕のことを、本当の息子だと思ってくれていた。
母さんがいなくなっても、それは変わらない筈だったのに。
なのにあの夏の神社の事件で、その一線を越えてしまった。
あの時、僕を抱きながら、父さんが流したのは、後悔の涙だった。
『……タキさん……、ひとつだけ、教えてほしいんだけど……』
『はい』
前からずっと疑問に思っていたことは、父さんとタキさんの関係を知ってから、もう確信に変わっていたけれど。
『父さんは、ここに帰ってこない時、タキさんの家にずっといたんだよね?』
僕がそう言うと、タキさんの表情がみるみる崩れていく。
ポロポロと溢れる涙を押さえるようにして、手で顔を覆う。
『ごめんなさい、ごめんなさい……』と、何度も繰り返しながら、僕に頭を下げていた。
タキさんと一緒にいると、安らげると言っていた、あの夜の光景が頭を過る。
僕は、まだまだ子供で、きっと全部を理解するには、もう少しだけ時間がかかるかもしれないけれど、
今、思うのは……、
『……父さんのこと、よろしくお願いします』
――『僕』という枷から、父さんを解放してあげること。
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