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―― 至愛(5)
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新しい生活は、今までのことが嘘のように穏やかに、普通に過ぎていった。
転校した高校では、誰も僕の過去を知らない。
転校生が、珍しがられて注目を浴びるのは、最初だけ。
なるべく目立たないようにしていれば、その内クラスの中で、空気のように馴染んでいける。
僕は相変わらず人付き合いは苦手だったけれど、それでも少ないけど友達もできた。
その事を慎矢に言うと、「親友は俺だけだからな」なんて、自信満々に笑うんだ。
確かに、何でも話せて信頼できる友人は、君だけかもしれないね。
転校してからも、慎矢とは時々会っていた。彼が大会に出る時は、応援に行ったりして。
『親友』なんて言葉は、なんだか恥ずかしくて僕の口からは言えないけど。それは、あの頃僕の中には無かった憧れの言葉だった。
ずっとこの関係を大切にしたい。高校を卒業して、進学して、社会に出て、結婚したとしても。
凌と隆司は、無事に同じ大学に合格したと、藤野先生が教えてくれた。
父さんとは……、あれからずっと会っていない。
再婚して、タキさんの家で暮らしていると、時々送られてくるタキさんからの手紙で知った。
岬の父は、煩く干渉してくることはないけれど、いつも近くで見守られているような安心感があった。
だけどまだ……、この人を名前以外で呼ぶことができないでいる。
心の中では、もうとっくに認めているのに。
穏やか過ぎる退屈な日々は、とても心地よくて嫌いじゃない。
でも……、時折、思うことがある。
――君と本当に赤い糸で繋がっている人は、きっと他にいる。
――相を想い、愛 想う。
いつかそういう恋をすることが、こんな僕にでも本当にあるんだろうか。
いつもそこまで考えて、僕は首を横に振る。
先生は、こうも言ってたじゃないか。
――『運命の糸は、無理やり手繰り寄せなくても、きっと繋がってると俺は思うよ』
だけどそんな運命の巡り合わせは、意外にも早く、ある時突然訪れる。
それは、僕があの街を離れた翌年、高校三年になる頃だった。
――そして、季節は巡り、今年もまた、あれから何度目かの桜の季節が訪れた。
それぞれが、それぞれの道を歩み始めて……。
僕は、美大を卒業して、この春から大学院へ進む。
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そよ風が春の匂いを運んでくる。
どこからか、桜の花弁がひらひらと舞いながら落ちてくるのが、台所の窓から見えた。
根菜を柔らかく煮て、いったん火を弱め、味噌を溶き入れていくと、特有の芳香が鼻腔を擽る。
お玉杓子で掬い、小皿に移した味噌汁の味を見て、口元が自然に綻ぶ。
昨夜、飲んで帰ってきた恋人のために、少し軽めの昼食を食卓の上に準備して、壁の時計を見上げた。
今日は、藤野先生の家で、慎矢の就職祝いと、いいって言ったのに、僕の大学院進学祝いもしてくれることになっていた。
その前に、寄りたい所もあるから、もう出かける準備をしないといけない時間だった。
「……先生も、そろそろ起こさないと」
台所から廊下に出て、南側にある居間へと向かう。
古い木造家屋は、僕の生まれ育ったあの家に少し間取りが似ている。
廊下は、歩く度に床の軋む音がするけれど、手入れが行き届いていて上品な艶が出ている。
木の香りのする家。
最小限に置かれたアンティークな家具や、夜になると灯る柔らかい照明は落ち着いた空間を作っている。
居間に入ると直ぐに目につくのは、壁に掛けてある、岬の風景の油絵。
暗い夜の海を照らす、灯台の光。
海へ伸びる険しい傾斜地形の崖。
荒れた暗い青の海。
これは、あの人の記憶の中の景色だ。
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