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―― 至愛(6)
居間と襖を隔てた四畳半の続き間には、小さな仏壇が置いてある。
去年僕がこの家に暮らし始めた頃に、あの人が用意してくれたもの。本尊は置かず略式だけれど、そこには彼の心が込められていた。
その前に座り手を合わせると、不思議と心が落ち着く。
――故人の死を受け入れ、故人が確かに存在していたことを忘れないように。
彼は、そう言っていた。
「母さん、今日は藤野先生と慎矢に、会う約束をしているんだよ」
手前に置いてある、母さんの写真に、話しかける。
「……その前に、あの家に行ってこようと思うんだ」
目の前の母さんの写真は、『……そう、気を付けて行ってらっしゃい』と、微笑んでくれているような気がする。
それから僕は、その隣の写真に視線を移す。
写っているのは、どこかの高校の制服を着た会ったことのない少年。
「潤さん、庭の桜が綺麗に咲いていましたよ」
彼は、僕の恋人の弟。
あの人が、この上なく愛した彼は、不思議なくらい、僕によく似ている。
居間に飾ってある、岬の絵は、彼が亡くなった場所。
だからあの絵は、あの人の遠い記憶の中の景色なんだ。
僕は彼で、彼は僕。
僕は、死んだ人を忘れられない人に、恋をした。
だけど、父さんの時とは違う。
四畳半の部屋から廊下に出ると、庭に張り出した縁側に桜の花弁が落ちていた。
隣の部屋の障子を、そっと開けて中を覗けば、恋人はまだ布団の中で眠っている。
穏やかな寝顔を覗き込みながら、「先生?」と、声をかけた。
「……ん……、潤……」
目を閉じたまま、教授は微かに身じろいで、僕じゃない人の名を唇から零す。
……また……間違えてる。
こういう時は、ちょっぴり尖った声で応えてあげる。
「兄さん、起きて。もう太陽が高いよ」
僕の恋しい人、雨宮 侑 教授を初めて知ったのは、僕が高校三年になる頃。進路に迷っていた時だった。
幻想的なシーンと写実的な背景を融合させた作品が話題を呼び、雑誌に紹介されている教授を見た時の胸の高鳴りを忘れられなかった。
先生の創り出す作品の世界観にさえ、僕は恋をした。
最初は、1頁目に載っていた作品に、惹き寄せられて、
次の頁を捲り、目に飛び込んできた教授の姿に目が離せなくなって、僕は本屋で立ち尽くし、時間を忘れてその頁を見入っていた。
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