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―― 至愛(7)
キャンバスに向き合うその人の、肘まで捲った制作着の袖から覗く腕にくっきりと浮き出る筋や、絵筆を持つ長くて繊細な指。少し長めの前髪を、神経質そうに掻き上げる仕草。
見開きに載せられた数枚の写真の、そんな細かいところに、僕は……。
その時の僕は、教授に父さんを重ねてしまっていた。
それと同時に、どこか憂いを含んだような漆黒の瞳や影のある微笑みが、心を掴んで離さない。繊細なのに迫力ある作品の背景に見えてしまう切なさを、僕は感じ取ってしまっていた。
雨宮 侑 って、どんな人なんだろう。
この人のことを、もっと知りたい。
そう思うと、居ても立ってもいられなかった。
あの頃、ずっと父さんの大切なもののままでいたくて、ただ捨てられたくないという思いから、愛を欲するばかりだった僕にとって、教授との出逢いは、もしかしたら本当の初恋と呼べるものだったのかもしれない。
僕はこの人に逢う為に、必死に絵の勉強をして、この人に少しでも近付きたくて、美大を受験した。
不純な動機だったと、自分でも分かっているけれど、でも……、ただ憧れて、近くで教授を見ているだけの、学生で良かった。
だけど、運命は、教授と僕を繋いでくれていた……と、今では思ってる。
教授と僕を引き寄せてくれたのは、もしかしたら、あの海に落ちて亡くなった、僕にそっくりな潤さんだったのかもしれない。
教授も僕と同じように、僕に潤さんを重ねて見ていたから。
それでも彼は僕に言ってくれた。
――君は、潤じゃない。
そのひとことが、嬉しかった。
「……兄さん」
もう一度耳元でそう囁くと、不意に伸びてきた腕に引き寄せられて、唇を奪われる。
そのまま重力に逆らえずに、僕は教授の胸板に両手を突いた。
「……ん……」
唇を割り入ってきた教授の熱い舌に、咥内はすぐに蕩けさせられる。
なのに、唇は直ぐに離れて、漆黒の瞳に見つめられた。
「おはよう、伊織」
艶やかな黒い瞳には、僕の顔が映し出されている。
「おはようございます、先生」
そう言って、もう一度リップ音を立てて、二度口づけを交わせば、教授の腕が僕の背中をきつく抱きしめて、僕は逞しい胸板に顔を埋める。
最初は、愛していた弟に似ているから、僕のことを意識してくれていたのかもしれなかった。
僕も……、どことなく似ている父さんを、教授に重ねて見ていたのかもしれない。
でもそれは、ただのキッカケに過ぎない。
最初は、教授に愛されるのなら、僕は、雨宮 潤になりたいと思っていた。
愛するものに心が囚われて、それから離れることは簡単に出来ない、教授のその気持ちは、きっと誰よりも、僕だからこそ理解できるから。
教授は、今でも時々、さっきみたいに僕の名前を間違えて、『潤』と呼んでしまうこともあるけれど、でも、こうしてちゃんと僕のことを見つめてくれる。
僕と暮らすことになった時に、それまでは無かったあの小さな仏壇を用意してくれた教授の気持ちが、何より嬉しかった。
――故人の死を受け入れ、故人が確かに存在していたことを忘れないように。
今はまだ…、僕達の愛は始まったばかりだけれど、教授は僕を誰かの身代わりじゃなく、岬 伊織 を愛してくれる。
僕も、誰かの代わりじゃなく、雨宮 侑 を、この上なく愛している。
未来なんて、どうなるか誰にも分からないけれど、でも、
もしも、二人の心が離れてしまうようなことがあっても、
たとえこの先に、絶望の朝が訪れたとしても、
今、お互いが相手を想い、相手を愛している、この瞬間があるのだから、きっと後悔なんてしない。
今僕は、とても幸せだよ。
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