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―― 至愛(10)
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久しぶりに降り立った懐かしい駅。
あの頃修復工事をしていた木の温もりのあった駅舎は、ベーカリーやコンビニなどの店舗が入っている小さな駅ビルが出来ていて、もう昔の趣きは感じられない。
中学へ行く途中に渡っていた、すぐ側の踏み切りも無くなり、いつの間にか高架化されていた。
駅前にある横断歩道は、前は無かった信号機が誘導音を鳴らしている。
信号機が点滅する横断歩道を走って渡る。横断歩道を渡って直ぐの小さな路地を入った数メートル先にある、斜面に沿って続く長くて急な石の階段……。
ずっと先にある女子大の学生が、『心臓破りの階段』と、嘆くのをよく耳にしていたっけ。
――良かった。まだちゃんとある。
古い階段だから、もしかしたら取り壊されたりしているんじゃないかって、少しだけ心配していた。
この階段が好きだった。
不揃いの幅の石の階段は、あの頃のままだけど、古くなって錆び付いていた手摺が真新しくなっていて、太陽の光で銀色に反射している。
あれから、もうすぐ6年になる。
きっと、毎日ここを通っていたら気付かないかもしれないけれど、その間に僕の好きだった景色も少しずつ変わっている。
あの頃、僕だけが変わってしまったと思ったりしていたけれど、時と共に変わっていくのは、周りも同じ。
慎矢の真っ直ぐな性格は、今も同じだな……と、あの太陽のような笑顔を思い浮かべて、クスッと一人で笑い声を漏らした。
彼は、二十歳になってすぐに、自分の意思で洗礼を受けた。
藤野先生は、今もあの高校で教師をしていて、今年の秋に結婚が決まっている。
日々、少しずつ、誰しも前へと歩いていく。
僕は……、
たくさん食べても、あまり身に付かないけれど、あの頃よりも随分と背が伸びたかな。
階段の中腹で立ち止まり、振り返ると、僕の好きだった景色が広がっている。
少し、どこかが違って見えるのは、僕の身長が伸びたせいだけじゃないと思う。
階段を上り切ると、石垣の上に建つ家が見えてくる。
高い塀の向こうから見える桜の木が、美しく咲き誇っていた。
もう、誰も住んでいない、僕の生まれ育った家。
鈴宮と、書いてあった表札も外されている。
もう、家の中も何も残っていないそうだ。
殆どの物は処分したけど、僕の描いたあの絵だけは、父さんのところにあるらしい。
あれから、タキさんは時々僕に手紙をくれて、父さんのことを教えてくれる。
売りに出されていたこの家も買い手が付いて、もうすぐ取り壊されて建て替えるということも、タキさんからの手紙で知った。
だから……、今日はお別れに来たんだ。
家の向かい側のガードレールに腰をかけて、生まれ育った家を胸の中に焼き付ける。
写真じゃ残せない、今、僕の目で見える全てを憶えておきたかった。
鞄の中から、一冊の古い本を取り出して、『至愛』と書かれているタイトルを指でなぞる。
著者は 鈴宮 武志。
この本を見つけたのは、偶然入った古本屋だった。
僕は、父さんが書いた小説を、あまり読んだことがない。
なぜなら、母さんが亡くなってから、父さんは、雑誌でエッセイの執筆はしていたけど、小説は書けなくなっていた。
主人公は、憧れていた女性と、禁断の恋に身を焦がす。
やっと手に入れた時には、恋しい女性は他の男の子供を宿していた。
それでも男は、愛する人の子供を自分の分身のように想う。
生まれてきた子供に、『伊織』と、名付けて。
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