2 / 6
(02) あれしてないのかよ?
亜紀人は、落ち着きを取り戻した。
ソファにもたれかかって言った。
「……ったく、お前はつくづく俺を脅かしやがる」
「そんな言い方しなくてもいいでしょ! 本当に悩んでいるんだから!」
かわいいほっぺをぷぅーっと膨らませた。
亜紀人は、腕組みをして考え込む。
「まぁ、確かにな……勃たないんじゃ、いろいろ不便だしな」
「不便って?」
「へっ?」
亜紀人の脳裏には、昨晩のオナニーの事がポッと浮かんだ。
それを、ぶんぶん頭を振って振り払う。
「そ、そんな事よりいつからだ?」
「いつ? いつだろう……気付いたのは最近なんだ。そういえば朝、元気にならないなぁって」
「ああ、朝勃ちか。って……お前、毎日、あれしてないのかよ?」
「あれって?」
「あれは、あれだよ……」
「あれ? ん?」
亜紀人は声を潜める。
「スッとぼけやがって……あれっつったら、お、オナニーだよ」
「……えっ! オナニーって……は、恥ずかしいなぁ……もう! あっ君のエッチ!」
隆之介は、顔を真っ赤にして頭をブンブンと振った。
亜紀人は、隆之介のあまりも大袈裟なリアクションに、お前は純情女子かよ!と、ため息をついた。
「お前なぁ……自分から話を振っておいて……まぁ、いいか」
「ねぇ……あっ君は毎日しているの? お、オナニー」
隆之介は、上目遣いで覗き込むように亜紀人の顔を窺う。
そして、手をもじもじさせて神経質そうに亜紀人の回答を待つ。
(全く、中学生かよこいつは。でも、そんなウブな所が可愛いんだがな……)
亜紀人は、内心ほっこりとするのだが、無造作に手を振った。
「いいんだよ。俺の話は……。ところで、隆之介」
「……あっ君は、毎日しているんだぁ……どんなのを見てしているんだろ……知りたいな……」
顔を赤くしてぼそぼそと独り言を呟く隆之介。
亜紀人は、はぁ、と再びため息をついた。
「なぁ、隆之介。話を戻すぞ。勃たないのは、メンタルが原因かもな」
「メンタル?」
隆之介は、ハッとして亜紀人の顔を見返した。
「ああ、例えば、性的な事でショックを受けたとか、最近なかったか?」
「性的な事……」
「ちょっと待てよ……隆之介。お前、一か月前ほど、上司から言い寄られているって言ってなかったか? あれは、俺のアドバイス通り、ちゃんと会社にセクハラ被害を言ったんだろうな? 男同士だってセクハラは適用されるんだからな」
「あー、あれね。それがね……」
「それで?」
「やっぱり、言わない! あっ君に怒られそうだから!」
プイっと顔を背ける隆之介に、亜紀人は身の乗り出して言った。
「な!? どうして俺が怒るんだよ! 言えって!」
「怒らない?」
不安そうに亜紀人を見つめる。
「怒る訳ないだろ? 俺はお前の事が心配なだけなんだよ。ほら、話してみろよ」
「本当に怒らない?」
「怒らないって……くどいぞ、隆之介!」
「……絶対だからね!」
隆之介は、視線を天井に向け思い出す仕草をした。
「じゃあ、話すけど……実は、あれからね……」
****
隆之介は、自宅からノートパソコンを使って朝のミーティングに参加していた。
課長が主催の会議で、メンバーは順番に進捗報告をする。
全員の確認が終わったところで閉会となった。
「……それではリモート会議はこれで終わる。あー、そうだ。隆之介君。ちょっと話がある。繋ぎっぱなしにしておいてくれないか?」
「はい。課長」
皆が会議から抜けていくと、課長と隆之介の二人きりになった。
隆之介は問いかけた。
「課長、お話って何でしょう?」
「えっとな、リモートワーク、不都合なく出来ているかね?」
「はい。とくに問題は無いです」
「僕はね、隆之介君の事が心配で。ほら、オフィスだったらちょくちょく見てあげられるだろ?」
課長は、やさしい口調で言った。
隆之介は頭を下げながら返す。
「すみません、課長。お気を使っていただいて……」
「そんなの上司なんだから当たり前だよ。そうだ、お昼休みに駅前のスポーツクラブで一緒にひと泳ぎしないか?」
課長のあまりにも急な申し出。
しかも、隆之介に答える隙を与えずに、捲し立てて続ける。
「僕は会員なんだよ。心配はいらない。うんうん、それがいい。コミュニケーション不足も解消できるし、運動不足も解消できる。一石二鳥じゃないか。そうだろ?」
「プールですか……でも、僕は……」
「ははは。遠慮はいらないよ。ゲスト割引が使えるから。よし、今日のお昼、水着を持ってきなさい」
「えっ……えっと、そんな急に……」
「じゃあ、待っているからね!」
プツリ……
会議は強制的に切断されてしまった。
隆之介は、はぁ、とため息を付いた。
***
亜紀人は、怒鳴った。
身を乗り出してテーブルを叩く。
「お、おい! 何、そんな約束しているだよ! 隆之介! お前、リモートワークになる前にそのセクハラオヤジがしつこいって言っていただろ!」
「うん……そうなんだけど。でも、よくよく考えてみたら、親切心かもなって……確かにリモートワークはコミュニケーション不足になるし、運動不足にもなるし……」
亜紀人は、興奮のあまり顔を真っ赤にした。
「だからってよ! お前、そんな時はいつでも俺を頼れって言っているだろ? あー、もう!」
「だって……」
「だってもくそもあるかよ!」
「……ほら、やっぱりあっ君、怒った……だから、言いたくなかったんだ、ボク」
泣きそうな顔になる隆之介。
亜紀人は、しまった、という顔をして頭を掻いた。
「ご、ごめん、ごめん。で、続き、あるんだろ? 隆之介」
「ん? うん、あるよ」
「ほら、話してみろよ」
「……もう怒らない?」
不安そうに亜紀人を見つめる隆之介。
亜紀人は、まだまだ言い足りない言葉があるのだが、それをぐっと腹の中に押し込め、無理やり笑顔を作った。
「ああ、怒らない。俺はそんな細かい事は気にしない性格なんだよ。うん」
隆之介は、亜紀人の顔をじっと見つめる。
亜紀人は、目を逸らして、ははは、とワザとらしく笑った。
「ほら、話せよ、な?」
「……じゃあ、話すね」
隆之介は、続きを話し始めた。
****
駅前のスポーツクラブのシャワー室。
課長と隆之介は、隣同士のブースに入り汗を流す。
ブース越しに課長が話かけてきた。
「どうだった? 隆之介君。いい汗かけただろ?」
「はい、課長。何だか、気持ちがいいです」
「そうだろ? あっ、そうだ。隆之介君」
「なんでしょうか?」
「二人の時は、課長ではなく、貴明さん、って呼んで欲しいって言っただろ?」
「……は、はい、貴明さん……」
「うん!」
課長の弾む声が聞こえた。
課長の名前は、森下 貴明 。
40才代後半の妻子持ち。
かつては相当モテただろう濃いめの顔に、色黒の肌。
サーフィンとスノーボードを趣味とするイケオジ。
普段は部下思いのいい上司なのだが、隆之介はどうにも苦手なタイプである。
その課長の森下は話を続ける。
「やっぱり、運動はいいね。僕もね、家にずっと引きこもって仕事をしているとストレスが溜まってね」
「そうですね。ボクも体を動かすとストレス解消になります」
「そうだろ? よかった。隆之介君を誘って」
森下と隆之介は、普通にレーンを周回し、思う存分泳いだ。
隆之介が警戒していたやましい事は特に無く、逆に課長に対して失礼だった、と反省した。
この時までは……。
森下は、隆之介のブースに顔を覗かせて言った。
「……ところで、隆之介君」
「な、なんでしょう?」
隆之介は後ろからの近い声に驚いて振り向いた。
森下は、隆之介の体を舐めるように見つめている。
そして、視線はお尻の位置でピタッと止まった。
「隆之介君の体って初めてみたけど……着やせするんだね……結構、ふっくらしている……」
「ちょ、ちょっと、た、貴明さん。覗かないでください。恥ずかしいです」
隆之介はサッとお尻を隠すような仕草をした。
森下は、すっと、ブースに入って来る。
「背中流して上げようか? 後ろ、手が届かないだろ?」
「キャッ……」
森下の手が隆之介の背中に触れた。
森下は大袈裟に笑うと、さらに距離を詰める。
「あははは。恥ずかしがることなんかないさ。僕は隆之介君の上司なんがら、部下の健康管理もしっかりしないといけないんだよ」
「だ、だめ……やめて……貴明さん……」
森下は、隆之介の背中にぴったりと体を密着させ、なでるように手を這わす。
「ふふふ。隆之介君の肌ってすべすべなんだね。僕は結構好きだな……」
耳元で囁く森下。
ぞくぞくっとして体をキュッと縮こませる。
「ほ、本当に止めてください……そ、そんな変な触り方」
「ははは、何を遠慮しているんだい?」
隆之介は、か細い声で言い返すが、森下はお構いなしで手を背中から腰へと南下させる。
「あー、そうだ、隆之介君。お尻を揉んであげよう。リモートだと一日中座っているからお尻、痛くなるだろ?」
「いえ、いいです……あっ、そんな……貴明さん……やめて……あっ」
森下は、隆之介のお尻を鷲掴みでむぎゅっと掴むと、手慣れた手つきで揉みしだく。
隆之介は、堪らずに声を上げる。
「あ、や、やめて……」
「ん? だいぶ、お尻凝っているな。ほら、ここ」
好き放題の森下に、隆之介は涙目になっていた。
「はぁ、はぁ……貴明さん……やめてください……」
「大丈夫だよ、隆之介君。そうだ、お尻の割れ目の所は優しくマッサージするといいんだよ。知っているかい?」
****
亜紀人は、堪らずに話を遮った。
「おいおいおい! 隆之介! ちょっと、待てい! お前、何やっているんだよ! 何で、上司にケツを触らせるんだよ!」
「……う、うう。やっぱり怒った……」
隆之介は涙目になった。
ひとさし指で目尻を抑える。
亜紀人は、やばい、と思って慌てて弁解した。
「べ、別に俺は怒っちゃいねぇぞ?」
とは言ったものの、先ほどの話を思い起こすと無性に腹が立つ。
それで、止まらなくなった。
「いや、怒っている! 猛烈に怒っている! どうして、断らねぇんだよ!」
「……だって……嫌がってもだめだっていうか……ごめんなさい……」
しょぼんと俯く。
亜紀人は、ちょっと言い過ぎたか、と思い極力優しい声で言った。
「で、その後は? ま、まさか……お前、その後も何かあるのか?」
「え? その後は、別のお客さんが来たからそれきりだけど……」
亜紀人は、ホッとして、大きなため息を漏らした。
「ったく、危なっかしいなぁ……隆之介、もう、誘いにも乗るな、そのスポーツクラブへもいくな! いいな?」
「……う、うん」
隆之介は素直に頷いた。
今回は運よく未遂で終ったが、もしかしたてたら、と思うと亜紀人は気が気じゃない。
亜紀人は、両手の拳を握りしめてゴキゴキと鳴らす。
「変態オヤジめ。森下っていったか、その課長? 今度、隆之介に手を出したら、絶対に殺してやる!」
「……でも、あっ君。課長は、そんなに悪い人では……」
「バカ! 悪い奴に決まっているだろ? 部下の尻を揉むとか……男同士で不潔な!」
「……あっ君……男同士だと不潔……って思う?」
隆之介は、おそるおそる亜紀人の顔を見る。
亜紀人は即答した。
「そんなの当たり前だろ?」
「……そうだよね……」
隆之介は、肩を落としてしゅんとした。
亜紀人はそれには気が付かず、隆之介の肩に手を置いて言った。
「とにかくだ。隆之介が勃たなくなったのは、それが原因で間違いなさそうだ。誰だって、そんなセクハラされたらトラウマにもなるぜ」
原因が分かりすっきり満足気な亜紀人。
しかし、ボソッと隆之介が付けた言葉を亜紀人は聞き逃さなかった。
「……でもね、それだけじゃないんだ……はっ……いや、何でもない」
「おっと、隆之介。何が何でもない、だ? 何か言いかけただろ?」
「え? 何も」
隆之介は、誤魔化すように視線を逸らした。
亜紀人は問い詰める。
「いや、言いかけたね。話せよ!」
隆之介は根負けした。
「……だって、あっ君、怒るから……」
「ふぅ……。怒らねぇよ。これ以上、怒るような話があるかって。ほら、話せよ」
隆之介は亜紀人の顔色を窺う。
「……本当に怒らない?」
「ああ」
「絶対?」
「絶対」
亜紀人は、無言で、どうぞ、と手を広げた。
隆之介は、一息ついて話始めた。
「……なら、話すけど……」
****
ともだちにシェアしよう!