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第2話
うろうろというかひらひらというか、心もとなく漂っている白い影が、眼下からのぼってくる。
徐々に浮かび上がってくるそれは、近づくにつれ少しずつ形を表した。
実体はないが、白い靄は人間の形を取っているように感じられる。
ここは9階だ。
もちろん外に人間がいる訳がない。
身体は透けている。
全体にぼんやりとして顔もおぼろだ。
幽霊。
成仏する寸前かな。
また、見えちまった。
いいや、ほっとこう。
眠い。
めんどくさい。
ややこしい。
俺は無視することにした。
というより気づかない振りを演じた。
眼を細めたまま視線を逸らし、踵を返す。
さっさとベッドに横になって窓に背を向けた。
フットライトだけ残して灯りを落とす。
眼を閉じる。
俺は寝つきがいいほうだ。
明日も市内をうろつく予定なんだからもう寝よう。
深く息を吐き眼を閉じた。
そんな寝入りばな、間近から話しかけられる。
「あの~」
心細げで微かな声。
幽霊だ。
「あの~すいません」
「………」
外から窓をすり抜けて部屋に入って来たらしい。
冷えた気配を感じた。
「すいません」
どうやら真上に浮かんでいるようだ。声が降ってくる。
俺は眼を閉じたままあえて無視することにした。
「お願いします。もしもし…」
やわらかな声が俺の耳元で話しかけてくる。
「ダメか……。この人見えてたと思ったんだけどな」
落胆した声から察するに幽霊は若い男のようだった。
舌足らずな感じで俺より断然若そうだ。
「起きてください。お願いします」
それでも俺はシカトを決め込む。
しかししばらくするとしくしくと泣き声が……。
頭上から涙が落ちてきそうだった。
うっとうしい。
「うるせーな。なんなんだお前」
「僕のこと見えるんですか!!」
しまった。
霊に返事しちゃまずいんだ。
やばいぞ。
もう繋がっちまった感じがする。
やれやれ、仕方ない。
俺はベッドの上で身を起こした。布団をはねのけ、胡坐をかいて斜め上方に視線を飛ばす。
さすがにちょっとばかし不気味なんで部屋の電気をつけた。やはり幽霊は宙に浮いて漂っている。
近くにいるせいか、幽霊は薄く色がついており、なんとなく顔が明るく見えて表情も分かるようになった。
眉を寄せて必死な表情で俺を見ているのは、かわいらしいと言っていいような面差しの少年だった。いや、少年というほど幼くはないか。
眼の色が薄い茶色に見えているのは、幽霊だからだろうか。
髪型は流行に乗らないさっぱりとした感じなのが好ましかった。
全体におぼろに白いが、元から白いであろうTシャツには黒字で大きく『受験生』とプリントされている。
どういう趣味だ。
取り敢えずそこから17,8歳とあたりをつける。
着ているパーカーの長い袖を指先につまんでいる感じが幼く見えた。
「見えてるよ。でも面倒ごとに関わり合いたくないから気づかないふりしてた。幽霊と関わり合ったってろくなことにならないだろ。とっとと消えろ」
「そんな冷たい……。僕、幽霊じゃありません。あの、多分ですけど……まだ間に合うと思うんです。死んだって言うより眠ってる感じで……。でもとにかく大変な状態なことに変わりなくて。助けてください」
「悪いが俺は呪術師とか陰陽師とか坊さんとかじゃない。なにもしてやれねぇよ」
「せめて話だけでも聞いてください」
うろうろしたけど縋る人もなくて……と、顔を歪ませてそう訴える。
「ほんとに僕まだ死んでないと思うんです」
「はあ? だってお前いま透けてて宙に浮いてるじゃねぇか」
幽霊は情けなさそうに自分の透ける手を見つめた。
心もとない風情は多少なりとも憐れを誘う。
いや、いかん。
この世のものでないものと関わるのはよくないことなのだ。
俺はあえて冷たくそいつをあしらうことにする。
しかし幽霊は切々と訴え続けてきた。
「僕の身体は家でおとなしく寝てるだけなんです。僕には持病もないし、まだ若いから心臓発作ってこともなさそうだし。普通に呼吸はあるみたいなんです。勉強してたら急激に眠くなっちゃって、気が付いたら僕の身体は机に突っ伏したまま魂だけ抜けちゃったみたいで……」
「だからそういうのを幽霊っていうんだよ」
「でも、まだ今なら戻れるかもしれないじゃないですか。僕こんなにはっきり意識があるんだから……。お願いします。助けてください」
「ほかを当たれ。さっさと成仏するんだな」
「そんなぁ。それは酷いです。やっと僕を見える人を見つけたんですよ。あなたじゃなきゃダメなんだ」
涙まじりの目元。
「僕の家このホテルの裏なんです。気が付けば部屋でふわふわ浮いてて、あせって色々試したんだけど、どうにもなんなくて。それで、誰か助けてくれる人がいないかって探してたんです。このホテルのフロントの人はまったく気づいてくれないし、少しずつ上に上がって来たけどもう寝てる人が多いし、5階に泊ってた女の人なんて僕を見て悲鳴を上げたんですよ。そんなんじゃまともに話が出来る訳もなくて……」
そりゃあそうだろう。
霊と関わり合いたいなんて奇特な人間、そうそういる訳がない。
「あなたは随分落ちついているし、こんな状況でも冷静で度胸があるように見えます。なにより幽霊であるらしい僕を怖がらない。頼もしいです。どうか僕を救ってください」
幽霊の白い腕が縋るように伸びて来る。普通ならあんまりいい気持じゃないだろうが、そうあしざまにするほど不思議と俺は嫌悪感を感じなかった。
目の前の少年は途方に暮れた顔をしている。
多少かわいそうな気持ちになって俺はうっかり手を伸ばした。
が、当然ながら触れることは出来ない。
俺の手は空を切った。
ホントに幽霊なんだな。
首を回してコキコキと音をさせると、俺は開き直って言った。
「しょうがねぇなぁ。分かったよ。話くらいは聞いてやるよ」
「ありがとうございます!」
その喜びようはまるで主人の出迎えで飛び付いてくる犬みたいだった。見えないしっぽをパタパタ振っているように感じられる。
「話は聞くけど期待はするなよ。まずは、落ち着かないからそこの椅子に座れ」
「こうですか」
白い人影はおとなしく椅子に腰掛ける。
俺もベッドの端に腰を下ろして向かい合った。変な感じだ。
幽霊は腿にこぶしを置いてしょんぼりとかしこまっている。その様子は学校の進路相談のおもむきだった。
「まずはなんだそのTシャツは」
なぜだか教師じみた口ぶりになる。
「変でしょうか。気合入れてみてるんですけど」
生真面目な返答を返して来た。ジョークじゃなく本気で着ているらしい。あまりファッションセンスはないみたいだ。
俺も、どうでもいいことを突っ込んでるのは、もしかしたら幽霊を前にして俺なりに緊張しているせいなのかもしれなかった。
「あの、僕は春澤優月(はるさわゆづき)といいます。そちらはお名前はなんとおっしゃるんですか」
育ちが良いのか丁寧に聞いてくる。
年上の人間への礼儀だろうか。
それとも不機嫌な俺が怖いんだろうか。
普通逆だろ。
幽霊に遭遇なんてしたら人間のほうがびびって固くなるもんだ。
俺はまったく横柄だが。
「湯橿。湯橿亮だ。湯はお湯の湯。橿は橿原神宮の橿。亮は鍋蓋に口書いて、下は売るの下半分と同じ。だいたいそんな感じ」
「はあ」
ぴんと来てないらしいが構わなかった。
「お前は?ゆづきってどんな字だ」
「あの、優しい月です」
名は体を表すというがとてもよく似合っていると思う。
その優し気な唇が俺を誘った。
「湯橿さん。それで……あの、これからうちに来ませんか」
「なに誘ってんだ。俺もう寝るとこだったんだぞ。面倒くせえな」
「ごめんなさい」
素直に謝る性格も好ましい。
ちょっと食指が動くぞ。
ここだけの話、俺はゲイで年下のかわいい男には弱いのだ。
この幽霊はストライクゾーンに入る。それにどうも初物っぽいし、食い応えがありそうだ。
「でも僕の本体のあるとこに行かないと始まらないですよね。湯橿さんに来て欲しいんですけど」
「死体に合わせるつもりか」
「死んでないんですってば。死んでないけど、生き返らせて欲しいんです」
「お前、無茶いってるな」
やれやれ。
「もし生き返らすことが出来たら、その代償にお前は俺になにしてくれるんだ」
交換条件。我ながら大人げないと思いながら、口元だけで笑う。
「なにって」
戸惑う幽霊の眼を覗き込んだ。
澄んだ綺麗な瞳が見返してくる。
「お、お金ですか。僕学生でそんなにお金ないんですけど」
「金はいらない。その代わり生き返ったらなんでも一つ言う事を聞け」
言い捨てて、俺は立ち上がるとさっさと服に着替えだした。
多少よこしまだが、かわいい幽霊を救ってやろうという気になったのだ。
うまくしたら食えるかもしれないしな。
急いで着替えると手早くコートをはおり靴を履いた。
この時間だとさすがに冷えるだろう。コートの襟を立てる。
「あの~」
後ろから不安げな声がした。
「なんでも一つってなんか怖いんですけど」
どんなことをさせられるのだろうと怯えているようだった。
俺は振り返ると人の悪い笑いを見せる。
「大丈夫だ。お前に出来る範囲のことだよ」
「はあ…」
幽霊のことは自信がある訳じゃないが、軽く請け負ってやる。
「こう見えて俺は頼もしいし優しいからな。任せとけ」
「はい」
それでも怯えて震えが止まらない優月の様子は、子ウサギのようにかわいらしかった。
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