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コアラとモグラ 第一章 第一話
コアラとモグラ
第一章第一話「新聞売りと白杖紳士」
「は、は、はっ……!」
人と人の隙間を縫うようにして、新聞紙の束を抱えて懸命に走る。
「っ、はぁ、はっ、……………あっ!」
「うぉっ、おいそこの新聞売り! どこ見て走ってんだ!」
「ご、……ごめ……な、さ…………!」
転んだ拍子にバラバラに散らばった新聞を踏みつけ、人々は何食わぬ顔で歩いていく。少年は、泣きたい気持ちをぐっとこらえて、新聞を一枚一枚拾い上げる。
大切な新聞をばら撒いてしまった。また怒られてしまう。今日もいつものように、殴られて、蹴られて、血を吐きながら、謝るんだ。
今日こそは、今日こそは上手くやろうと思っていたのに。
「……っ、しんぶんを、かってください」
新聞をぐしゃぐしゃに握りこみ、人混みに右手を突き出す。人々はちらりと横目で少年を見て、何食わぬ顔で通り過ぎていく。
「かってください」
ぷるぷると小さく震える手で、何度も何度も手を伸ばす。顔をぐしゃぐしゃにして、血塗れの足で踏んばって。
「しんぶんを……」
「うるせえな」
「……ぁ……!」
「ったく、こんなとこで新聞なんか売ってんじゃねぇよ邪魔くせぇな!」
知らぬ人に突かれて地面に打ち付けられても、立ち上がって、腕を上げる。口の中が、血の味がする。ここ最近は、ただの一人にも新聞を買ってもらえず、少年はもう何日も飯を食べていない。苦しくて、目眩がして、けれどそれでも、踏んばって、新聞を売る。
それが、このコアラの少年、スピカの仕事である。
「しんぶんをかってください」
通りかかった少し歳上の子どもたちが、スピカを見てケタケタと笑い声を上げた。
「おい見ろよ、能無しのコアラが新聞売ってるぜ」
「ホントだ。知ってるか? こーいうやつ、親に捨てられたんだって!」
「かわいそー」
スピカは俯く。父も母も、物心ついたときには既に側にはおらず、ずっと悪名高い孤児院で暮らしてきた。一度たりとも、両親から手紙が届いたり、金が送られてきたりしたことはない。可哀想だと言われれば、たしかにそうかもしれない。
「おい、真面目に働けよ、マヌケ!」
あからさまな怒りを含んだ声がして、はっと顔を上げる。同じ孤児院の子どもたちの声だ。彼らはこちらへ近づいてくると、突然スピカの胸を強く叩いた。
「……ぁ……」
だめだと思ったその時、スピカは、叩かれた場所から黒い液体が飛び出してくるのを見た。真っ黒く染まった手が、自分に向かって伸びてくる。
「うぁ、あ……」
途端、押しとどめていたものが一気に吹き出した。街を歩く人々が突然黒くくすみだし、あらゆるものの音が耳へ押し寄せる。靴音、川の流れる音、心臓の音、血液の流れる音。スピカは地面に転がって、背を縮こまらせた。
「おい、何してんだよ」
「コイツ時々こうなんだって。ほっときゃなおるよ」
「いこうぜ」
惨めで情けない。自分はこんなにも情けない。どうして自分は、鈍くて頭も悪いコアラなぞに生まれてしまったのか。
どうして他と同じようにできないのだろう。どうして上手く立ち回れないのだろう。たくさんのことを覚えられないのは、世の中を知らないのは、たくさん怒られるのは、自分が悪いのだろうか。
拳を握りしめる。分かっている。新聞のひとつも売れない自分など、殴られて当然なのだ。
うるさかった世界の音は止んでいた。顔を上げても、おかしなものは見えなくなった。スピカはやっと立ち上がると、顔を上げて、再び右手を突き出して震える声で人混みに声をかけた。
「しんぶんを……!」
「わっ」
またぶつかってしまった。スピカは、恐怖に怯えながらもふらふらと立ち上がる。また、どこに目を、とお決まりのフレーズで怒鳴られるのだろうか。謝ろうと相手を見ると、相手はまだ立ち上がっておらず、困っている表情で地面に手を這わせていた。黒みがかった銀髪の若い男性で、手探りで何か探しているようだ。
不審に思ったスピカは、キョロキョロ辺りを見渡した。
相手の数メートル先に、白杖が落ちていた。また、相手の顔をよく見ると、黒いサングラスをかけている。その奥にある藤色の瞳をじっと見れば、うまく一点を捉えておらず、この人は目が見えないのだとすぐに分かった。
彼はしばらく地面に這いつくばるようにして白杖を探していた。しかし白杖は、彼の手の届く範囲の遥か彼方に飛んでいってしまっている。人通りの多いこの場所で、あれを拾うのは難しいだろう。
スピカは暫く彼を眺めていたが、勇気を振り絞って近寄った。スピカが白杖を拾って彼の手に触れさせると、その人はこちらを見上げるように顔を向けた。
「ああ、ありがとうございます」
声のきれいな男性だった。白杖を握った彼の手が、スピカの手にちょんと触れ、彼は少し驚いた顔をしていた。
「本当に助かりました。先程私がぶつかってしまったのは貴方ですか? 子どもにぶつかってしまうなんて、本当に申し訳ない。痛くありませんでしたか?」
男性は少し口の端を持ち上げるようにして笑った。少し不格好だが、人の良さそうな柔らかい笑顔だった。スピカは黙り込んだまま、新聞を握りしめて男性から目をそらした。
「……あの、大丈夫ですか? お怪我がありましたか?」
スピカは首を振ったが、目の見えない男性には通じず、彼は困ったような顔で、更にあれやこれやと尋ねてきた。
「大丈夫ですか? もしかして、痛くて声も出ないのですか? どこが痛いか教えていただけますか……?」
男性は優しい声で続ける。この人は、ぶつかった相手が自分だと、バカでマヌケなコアラだと気づいていないから、だから優しくしてくれるのだとスピカは思った。
「……大丈夫ですか?」
男性は繰り返しスピカに尋ねた。スピカはゆっくりと口を開いたが、喉は震えなかった。
獣人には、獣性という性質がある。彼らは人間と獣、両方の血を引いているために、皆大なり小なり獣の性質を持っているのだ。スピカは、コアラ族の子どもである。コアラは、元々頭のいい動物ではない。その性質につられて、スピカも頭が悪く、コミュニケーション能力が元から極端に低かった。加えて、毎日のように大人から浴びせられる暴力、罵声。幼い彼は、人と会話をすることができなくなっていった。言葉は喉まで登っているのに、声がうまく出ないのだ。
「しんぶんをかってください」「いちぶ100ルチです」。何度も練習した、この言葉なら言えるのに、他の言葉は、この口からは出てこない。心配そうな顔をするこの人に、大丈夫だと伝えたいのに、それもままならない。
「失礼しますね」
スピカが黙ったままでいると、男性は勝手にスピカの体を両手で触り始めた。
「っ! ……!?」
驚いたスピカは、わかりやすく身を引いた。しかしそんなことは気にもとめず、男性はスピカの身体を優しく触って、何かを確かめている。
「腕と足に擦り傷……ですか? ……ああ、血も出ているじゃないですか。本当に申し訳ない」
男性が触れたその傷は、彼とぶつかったときにできた傷ではなかったが、彼はスピカに謝罪した。スピカは、体を触られて驚いたのと、殴られるのではないかと怖くなり、今すぐ暴れだしたいような気持ちになった。けれど、その人の声があまりに優しくてきれいだったので、その衝動はすぐに収まった。
「痛かったでしょう。泣いていいのですよ。よく我慢しましたね」
一瞬、言われた意味が理解できず、スピカは固まっていた。けれど少しして、スピカはその場にうずくまって泣き出した。ぼろぼろと涙をこぼして、声も上げずに泣いていた。男性はその様子に少し戸惑いながらも、スピカを道のわきに誘導して座らせた。
「我慢せず、声を上げて泣いていいんですよ。恥ずかしいことはありません」
「……っ、………」
スピカの喉は震えない。時折、かすかに空気の詰まる音がするだけだ。
「……あまり痛むようなら、今ここで足の怪我の処置をしましょうか?」
落ち着くようにと肩を撫でながら、男性はそう尋ねたが、スピカは首を振った。今度は身体に触れていたために、男性にも伝わったらしく、男性は「わかりました」と答えた。
スピカが泣き止むのを待ってから、彼は控えめな声で言った。
「私はクロトと言います。貴方のお名前は?」
きかれて、しばらくの間が空いた。スピカは頭の中で何度も返答を繰り返し、やっとのことでゆっくり答えた。
「…………スピカ」
「良かった、やっと声が聞けました」
クロトは少し微笑んだ。まだ若そうな青年だが、行動や言動はまるで貴族のように優雅で上品だ。スピカは、珍しいものを見るような目で彼を見た。
「はじめまして、スピカくん。杖を拾って頂いてありがとうございました」
クロトは柔らかく微笑むと、スピカに手を差し出した。黒と赤で塗られた爪が長く伸びていて、肉食動物のそれによく似ている。手元はとても怖かったが、その人の声と表情はとても優しかったので、スピカは恐る恐る手を握った。
クロトはその手が、自分が思っていたよりももっと小さく、また、かすかに震えていることに気づき、驚いた顔をした。彼はスピカの側にしゃがみこむと、また一つ質問をした。
「まだ小さいのに、こんな街中に一人で何をしに来たのですか?」
スピカは案の定、すぐには答えられなかった。けれど、クロトはスピカが答えるまで、黙ったまま待ってくれていた。随分経ってから、スピカは小さな声で、「しんぶんを」と切り出した。
「しんぶんをうりにきました」
「新聞……ですか」
クロトの表情は少し曇った。スピカが孤児で、孤児院で無理やり働かされているのだと勘付いたからだ。この街の新聞売りは、身寄りのない子供ばかりであるため、彼はすぐにスピカの置かれている状況を理解した。
新聞は、ヒト族が大昔に生み出した文化だ。ヒト時代の最高レベルには程遠いが、科学は進歩している今の時代、この街のような都会では、新聞はコストがかかるためにあまり好まれていない。よって、新聞という文化は、長らく人々の間から姿を消していた。
しかし、最近この街のリーダーが代わり、身寄りのない子供達や行く宛のない大人にも簡単な仕事を与えるようになってからは、そのような仕事の一部として新聞文化が復活した。
身寄りのない子供たちは、そういう小さな仕事で食いつないでいる。
「辛くはありませんか」
クロトは静かにきいた。スピカは大きく首を振り、喉から絞り出したような掠れ声で、「しあわせです」と答えた。
クロトは唇を噛み締めた。ヒト族によって奴隷のように扱われた獣人たちが、世界を変えようとヒト族を滅ぼしたところで、結局世界は変われない。生き物は、ただ歴史を繰り返すだけだ。残忍なヒト族の歴史が、獣人族によって繰り返されているだけ。
「……よく、頑張っていますね」
クロトはそれだけ言った。スピカはふるふる首を振った。
戦争が終わり、ヒト族が滅んでから30年。まだ新しい世界に、孤児は珍しいものではない。しかし、こんな幼い子どもを働かせる悪徳孤児院は、めったに無い。
「……そうだ、新聞はおいくらですか」
クロトはそう言って、自分のポケットを漁りはじめた。ポケットには、小さな硬貨二枚だけが入っていた。きかれたスピカは反射的に、感情のない早口で答えた。
「いちぶ100ルチです」
「では二部頂きましょう」
クロトはスピカに硬貨をニ枚握らせた。怪訝そうな顔で、スピカが新聞を二部渡す。一人で同じ新聞を二部も買う人など、はじめてだった。
「……ふふ、友達にも読ませたいのですよ。だから二部、ね」
クロトは二本指を立てて、にっこり笑った。スピカの頭を撫でてから、クロトはさっと立ち上がる。「では失礼します」とスピカに対し丁寧に頭を下げ、白杖と革靴ををカツカツと鳴らしながら、人混みの向こうへ消えていった。
その姿勢正しく歩く美しい姿を、スピカはいつまでもぼうっと見つめていた。
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