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コアラとモグラ 第一章 第二話

コアラとモグラ  第一章 第二話「思い出のひと」  「スピカー? 早く来いよー」 「うん、待って」  靴のつまさきをトントンと鳴らしながら、友人の背中を追いかける。ボサボサ頭で大きなあくびをしながら、友人は猫背で突っ立っている。 「ごめん。ありがとう、マキ」 「ナマケモノより行動遅えとか、お前どうなってんだよ」 「マキがはやすぎるんだよ」  スピカは苦笑を溢してゆったりと言葉を返す。 「……そういえば、陸上の方はどう? 大会があるんだよね?」 「いい感じだぜ。俺が速すぎて、アマテがめっちゃ悔しがってた」 「アマテくんって、隣のクラスのチーターの? チーターを負かしちゃうなんて、マキはすごいね」 「ま、俺は天才だからな」  マキはガッツポーズをしてにかっと笑った。校門を出ると、バスケ部が走り込みをしているところに出くわした。その音にあわせて、横でマキが足踏みをしている。 「スピカも陸上やろうぜ」 「お、俺はいいよ。早く走れないし。運動は向いてないよ……」 「マネがすげーかわいいから、ホントオススメだぞ? それにお前顔いいし、運動もできたら絶対モテるって。園芸部なんてやめちまえよ」 「……別にモテたくないし…………」 「あはは、冗談だよ。スピカは恋愛より植物が大好きだもんな」 「…………そうだね」  恋愛より植物が好き。  幼い頃からの人見知りを拗らせたスピカは、17の年になっても、恋愛という言葉があまりピンとこなかった。暴力を受けながら育ったせいか、引っ込み思案で臆病な性格はこの年にっても完全にはなおらず、いつも一歩引き下がって人と接する。おまけに、植物以外の何事にも特に際立った興味がなく、感情らしい感情も持たない彼は、話すことでさえ苦手だった。恋愛となれば尚更、興味もわかなければ理解もし難い。  人は殴るし暴言を吐く。スピカにとっては、人より植物のほうがよっぽど都合が良かった。 「でも、お前ほんと男前になったよなぁ」  マキはスピカの前髪をひょいと手で持ち上げて言った。突然目の前に現れた手のひらに、スピカは反射的に顔を遠ざけて逃げてしまう。 「頭触らないでよ」 「悪い悪い」  長い前髪に隠れたその顔は、昔ヒト族が愛したコアラと同じように愛らしい。愛玩動物としてつくられ、基本美しい容姿を持つ獣人のなかでも際立っている。スピカには独特の柔らかい雰囲気があるのに、それが長い前髪で隠れてしまうのは勿体無いと、マキは常々思っていた。 「せっかくの綺麗な顔が勿体無いぞ。モテたくねーの?」 「……そういうの興味ない」  スピカはそう言うと、すっと道をそれて、大きな窓のある建物に入っていった。  そこは、スピカが帰り道にいつも立ち寄る小さな花屋だった。初老の男性が一人で切り盛りしている店で、白い建物に、「Rion」と書いてある看板が掛かっている。店のシンボルでもあるビワの木は、小さな子どもたちがよく実をもぎとっていくのを頻繁に目撃する。店の中には、たくさんの花に囲まれた休憩スペースがあって、スピカはいつもそこに座って、時間の許す限りじっと花を見つめている。  マキは特別花が好きではなかったが、部活の休みの日にはスピカに付いてこの店に来て、いつも暇そうにスピカを眺めている。 「楽しーの? それ」  椅子に座り、花を眺めだしたスピカは、もう何も答えない。 「スピカー?」  スピカは瞬きもせず、ただじーっと赤いチューリップの花びらを見つめていた。まだ彼と出会って間もない頃、そんなに熱心に何をしているのかと問いかけたところ、その花の繊維の一本一本を見つめ、葉の中の水の流れや、光を吸収している音を感じているのだと教えてくれた。教えてくれたところで、マキにはスピカの世界は難しくて理解ができなかったのだが。 「……おや、来てたのかい、コアラの坊や」  店の奥からフクロウ族の店主が現れた。今まで暇そうにしていたマキが笑顔を見せる。奇妙な色味の髪の毛と、金の瞳を持つ彼は、名をジンという。 「こんにちは、ジンさん」 「おや、ナマケモノの坊やも。こんにちは。コアラの坊やはいつもの通りかい?」  ジンは近くに寄ってきて花を五本ほど抜き去って行ったが、スピカはそれにも気づかず、自分の世界に浸りきっていた。 「そう。……スピカも飽きないのかな?」 「ははは、坊やほど花が好きな子もなかなかいないだろうな。ま、ゆっくりしていけばいい」  ジンは遠くのレジの椅子に腰掛けると、ニコニコと嬉しそうにスピカを見つめた。配偶者や子供のいないジンは、マキが出会うよりもずっと前から、悪徳孤児院にいるスピカを気にかけてくれていた。  10分くらい経つと、ジンは静かに立ち上がり、スピカとマキに紅茶を淹れた。マキはちびちび温かい紅茶を口にふくみながら、課題帳を広げて隙間に落書きをしはじめた。ジンは花をぱちぱちと切り揃えて、ブーケにしたり生けたりしていた。ここへ来てから既に30分ほどが経っているが、スピカの目はまだ花から離れない。  二人は、スピカのいつも通りの姿に、何も言わずにただのんびり時間を潰していた。マキは、スピカと過ごすこのなんでもない時間も、案外好きだった。マキはスピカとは違い、多くの友人を持つが、他の友人と彼は、全く違う。スピカは、自分の親友なのだと思う。 「……?」  しばらくして、突然、スピカが目線を花から外した。 「スピカ? どうした?」  いつもは帰るぞと声をかけるまで一ミリも動かないくせに珍しい、とマキがスピカを見る。彼の目線が、壁の方をみてぴたりと止まった。瞬きもせずに真っ直ぐに見つめている先には、一枚の絵があった。 「ジンさん、これ」  スピカがぼんやりとした声で言った。この店に絵などあっただろうかと、マキは首をかしげる。 「お、コアラの坊やも気づいたか。なかなかいい絵だろう」 「ねえあれ何の絵? 黄色と白とオレンジがデタラメに塗られてるだけのような……」 「はは、ナマケモノの坊やはまだまだだな」  すぐに飛んできたマキの反論には全く耳を貸さず、ジンは得意げな表情で語りだした。 「これを描いたのは、とある盲目の画家だ。タイトルは『花束』」 「これ花ぁ? 言われてみれば花かもだけど……。その人ゴッホとか、ピカソ? とか、そういう有名な人?」  そりゃいつの時代の話だ、とジンは呆れきった顔でマキを見た。そんなふうに言われても、マキは画家なぞよく知らない。まして盲目だなんて、そんな画家がいるものかとマキは心のなかで思った。どうせまたジンの作り話だろう。 「彼は近年注目されてる画家だ。腕の良い画家なんだが、彼の生まれた土地なんていうバカげた事情のせいで、あまり良く評価されないんだよ。ちなみにこれは、俺の行きつけの花農家さんのを譲ってもらったのさ。絵を褒めたら、『持ってても不吉だしやるよ』って」 「えっ? ホントの話?」 「じゃなきゃ、俺が絵なんか飾ると思うか?」 「……まあ、確かにそうかも。……スピカはこれに興味あんの?」  ジンの説明も聞かず、マキの質問にも答えず、スピカはじっと絵を見つめていた。その様子は、まるで何かに取り憑かれたようで、ジンとマキは、花以外のものに初めて執着を見せたスピカに少し驚いた。 「…………」  スピカは、まず「この絵」と目が合ってはじめに、温かい絵だと感じた。しかし、すぐに、温かいのは外側だけで、内側は酷く暗くて冷たいことに気がついた。けれど、その皮も肉も全部剥いで出てくる骨組み……この絵の本質の部分は、とても柔らかい真綿のようなものでできていて、かすかに温かいように感じる。 「スピカ?」  絵を見つめて少しも動かない友人を見て、マキは怪訝そうに彼の名を呼んだ。 「会ったことがある」  スピカはそれだけ言った。 「は?」 「なんだ、坊やの知り合いか?」 「何だお前、知り合いなんてほとんどいないくせに、画家の知り合いなんていんのかよ?」  マキとジンが尋ねても、スピカは絵から目を離さなかった。この絵には、何か自分を魅了するものがある。変な絵だ。なにより、 「会ったことがある。この人に。随分昔。でも、どんな人だったか、どこで会ったのか、ちっとも、なんにも思い出せない」  スピカの言葉に、マキは眉をひそめた。そのまま、何を言っているのか分からないという顔で、マキはジンを見る。ジンも、不思議そうな顔でマキを見つめかえした。 「ずっと昔だ。いつだっただろう。こんな人に会ったことがある。背筋のピンと伸びた堅い人だった。……脆い人だった。少しでも内側に触れたら、ぼろぼろと崩れていきそうな」  スピカは絵を外そうと立ち上がった。この絵を描いた人間の名前が知りたかったのだ。 「よせスピカ。人のものだろ」  マキの声に、ハッと我にかえり、スピカは後ろを振り向いた。マキが怒った顔をしていた。正義感の強いマキは、人のものに勝手に触れようとしたことに怒っているようだ。隣では、持ち主のジンが困った顔をしている。慌ててジンの前で頭をさげると、ジンは苦笑して言った。 「この絵描きは、アンダーシティに住んでる。そんなに気になるのなら、行ってみたらいい」  スピカはぱっと嬉しそうな顔をした。 「坊やがそんなに人に執着するのは初めてだからね」  ジンは桶から咲きかけのユリをひっぱり出すと、何本か束にしてスピカに差し出した。 「ほら」 「……? 花?」 「明日くらい、きれいに咲くだろうから、手土産に持っていけ。分かったか? 明日だぞ」  花束を渡したのは、スピカが考えなしに突っ込むことがないようにだろうな、とマキは思った。彼なら、仕事のことやマキのこと、何もかも忘れて今この瞬間に突撃しかねない。ジンは言葉を繰り返して念を押した。スピカはゆっくりと頭を下げると、にっこり微笑んだ。 「ありがとう、ジンさん」 「おう。金はいらんからな。……ところで、お前、そろそろ仕事だろ」 「うん。もう帰らなきゃ……」  カバンと花束を抱えて、スピカは店から出た。店の時計を確認すると、もう孤児院での仕事の時間が迫っていた。スピカはもう一度ジンに謝罪と礼をすると、慌てた様子で花屋をあとにした。不思議と足が軽くなる。雨上がりに水溜りを跳ねるような、虹を追いかけているような、そんな心地がした。 「……なんか、スピカが恋してるみたいだ」  遠くなる背を眺めてマキがそう呟くと、ジンが横でゲラゲラ笑った。 「そんな笑うことある?」 「はっはっは、良い良い。坊やも成長したってことだな」  おとなしく待っていたのに結局スピカに置いていかれてしまったマキは、呆れたような表情を浮かべながらも、スピカがこれほどまでに人に興味を持ったことが、内心とても嬉しかった。初めて出会ったときの、あの、感情を圧し殺し、蹲っていた彼を思い出した。カバンを肩にかけると、ジンに挨拶をしてから家に向かって歩き出す。  アンダーシティ。ならず者の集まる地下の牢獄に向かうという友人を、少し心配しながら。

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