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コアラとモグラ 第一章 第四話
コアラとモグラ
第一章 第四話「はぐれモグラ」
空気に混じる絵の具の匂い。筆がパレットを滑る音。濃い土と木の匂い。
ゆっくりと目を開く。黒っぽい土の天井が視界一面に広がっている。そろりと目だけで壁を見回すと、様々な色の美しい絵が一面に飾られているのが見えた。瞬きをする。奥に、絵の具や筆でごちゃついた小さな机があった。時計は午後四時を示している。
「気が付きましたか」
「わっ」
いつの間にか筆を止めていたらしい男が、スピカに声をかけた。驚いたスピカが声を上げると、男は柔らかく微笑んで、筆と絵の具を机に置いてこちらへやってきた。
「身体、大丈夫ですか。痛かったでしょう」
男はベッドの横にしゃがみ、スピカの頬を撫でた。
彼に触れられても、感じたのはいつもの不快感ではなかった。ただ、どこかで聞いたことのあるような言葉だと、見たことのあるようなシーンだと、ぼんやりとあたたかい懐かしさを覚えた。
スピカは上半身を起こし、頭を下げる。
「……あの、助けてくださって、ありがとうございました」
「いいえ。貴方が無事でよかった。……ああ、でも、無事とは言い難いかもしれませんが……」
男は言い淀んだ。確かに、スピカのこの状況は、客観的に見れば、彼の言う通り無事とは言い難いだろう。
しかし、身体は体液や土で汚れてもいないし、丁寧に後処理までもが施されている。スピカにとっては、これはむしろ“無事”の域どころではなかった。普段の仕事のほうが、体液で汚れたまま朝まで放置される分、よっぽど無事でない。
スピカは驚き感謝すると同時に、申し訳なく思った。
「……その、色々、ありがとうございました。ご迷惑をおかけして、すみません」
「いいえ、お気になさらず。あの道は特に危ないですから、地下に用事なら別の道を通るといいですよ」
「そうだったんですね。俺、何も知らなくて……。本当に、ご迷惑をおかけしました」
深く頭を下げる。何度も頭を下げるスピカに、彼は小さく苦笑を溢した。
スピカは何の用意もなしに来てしまったことを後悔した。アンダーシティを甘く見ていた。どんなことがあろうが、所詮被害を被るのは自分だけであるつもりでいたのだ。まさか、人に迷惑がかかるだなんて考えもしなかった。
「貴方が悪いことは何もないのですよ」
男はそう言って、スピカの肩に手を添えた。体温の低い手のひらが、なんだか寂しそうだった。
「あの、貴方は、画家……なのですか?」
スピカは尋ねた。男は一瞬驚いたように固まったが、すぐに口の端を持ち上げるようにして笑った。
「ええ、私は画家です。生まれつき目は見えませんが、絵を描くことが好きで」
壁に花の絵がかかっている。スピカの胸がドクンと音を立てた。
そうだ、この人だ。花屋で見た、あの美しい絵を書いたのは、間違いない、この人だ。
スピカが何も言わないでいると、男は控えめな声で問いかけてきた。
「貴方のお名前は?」
「……あ、えっと、スピカと言います」
「えっ」
男が驚いて声を発した。目が大きく開かれ、藤色の瞳が輝いた。
「もしかして、幼い頃、新聞売りをしていましたか?」
「は、はい」
スピカは少し怪訝な顔をした。自分の知らない人が、自分を知っていることに戸惑ったからだ。しかし、スピカの表情など、目が見えない男には気にならないようで、頬を紅潮させてゆったりと微笑んだ。
「ああ、あのときの少年だったのですね。……そうですか、気が付かなかった。とても大きくなりましたね。ふふ、あんなに小さかったのに。ああ、でも、無事で本当によかった」
「あ、あの、貴方は……」
スピカは、確かにこの人を知っている気がする。しかし、どう思い出そうとしても、どこの誰だか見当もつかなかった。
男は少し悲しそうな顔をした。しかし、それからまた優しく微笑んで、
「そうですね。もう10年以上も前のことになりますから、貴方が覚えていなくても、無理はありません」
と言った。
「私はクロト。盲目のモグラです。仕事は、先程も言いましたが、絵描きです」
クロト。聞いたことのある名前だと思ったが、どうにも思い出せない。どこで会ったのか、どんな会話をしたのか、全く分からない。確かに覚えている気がするのに、それを思い出すことができないのだ。
「それで、『俺、貴方に……』、何ですか?」
「え?」
スピカが首を傾げていると、クロトは突然そう尋ねた。聞き返したスピカに、クロトはきょとんとした顔で続ける。
「倒れる前、言っていましたよね? ずっと続きが気になっていて。私への何かしらの言葉かと思って」
「あ、えーっと……?」
そんなことを言ったような気もする。けれど、正直倒れる直前の記憶などあまりない。
スピカは正直に言葉を続けた。
「あの、その時なんて言おうとしたかは覚えていないんですが……。その、俺、貴方の絵を見て、貴方に会いに来たんです。絵を見たとき、この作者に会ったことがあるって思って。そしたら、なんだかすごく会いたくなって、なんだか、こう、行かなきゃって思って……」
自分で言っていて恥ずかしくなった。あのとき、形容しがたい感情に取り憑かれ、後先考えず走り出してしまった。もっと慎重に行動すれば、こんなことにはならなかったのに。
どうしてか、なんとしても今すぐに、この男に会いにいかなくてはいけない気がしたのだ。
クロトは心底嬉しそうに微笑んで、胸の下のあたりでゆっくりと両手を合わせた。
「そうだったのですね。遠かったでしょう。会いに来てくれて嬉しいです。……けれど、ああいうことにもなってしまって……」
「いえ、それは下調べしなかった俺の責任なので。……こういうの慣れてますし、大丈夫ですよ」
慣れている、という言葉にクロトは何か言いたげな表情をしたが、すぐに、そうですかとだけ言った。
「それにしても、随分お喋りが上手になりましたね。あの頃は、私が何を言ってもだめだったのに」
「そんなに昔の俺を知っているんですか?」
スピカは尋ねる。彼とて、学校に通うようになった頃には、それなりに会話くらいはできるようになっていた。会話さえままならないような頃といえば、記憶もほとんど無いような、本当に幼かった頃だ。
「ええ。まだ五歳くらいだったような気がします……。あれから貴方をあの大通りで見かけることはありませんでしたが、新聞売りにしては珍しくとても無口な子だったのでよく覚えていますよ」
「い、今でも、あまり喋るのは得意ではないです。全然喋れなくて。俺、人より花のほうが好きなくらいですし……、あっ、花といえば」
花屋のジンから、花束を作ってもらっていたのだった。慌てて辺りを見回したが、花束らしいものは見当たらない。アンダーシティに入るときは確かに花束を持っていたが、クロトの家までの道のりで花束を持っていた記憶がない。
置いてきてしまったのだろう。目の見えないクロトが、花束に気づくわけもない。
「花といえば?」
クロトが首を傾げた。スピカはバツが悪そうに、膝の上で手を組んだ。
「……俺、花束を持ってきていたんですが、落としてきてしまったみたいです」
言うと、クロトはえっ、と声を漏らして、わかりやすく慌てだした。
「も、もしかして大切なものでしたか? この後誰かにあげる予定だったとか。ああ、申し訳ないです、気づかなくて……」
「い、いえ。違います。実は貴方に」
「……私に?」
「その、知り合いの花屋の店主が、貴方に持って行けと作ってくれた花束で……」
「私に、花を……?」
クロトはしばらくなにも言わずにぽかんとしていたが、やがて、少し頬を染めて、嬉しそうに、恥ずかしそうに笑った。
「……そう、でしたか。私に、花を……。それは……、その……、なんというか、惜しいことをしました」
藤色の瞳が柔らかく歪み、赤く染まった頬の上を、銀の髪が掠める。
かわいい。スピカは、至極単純にそう思った。そして、そう感じた自分に心底驚いた。
スピカは、人生で人をかわいいと思ったことはなかった。かわいいどころか、人やものに対して、かっこいいだとか、素敵だとか、そういう感情を一切抱いたことがなかった。スピカは、幼い頃から繰り返される暴力によって、ものに対する殆どの感情を失ってしまっていたからだ。今まで一度だって、人に心を動かされたことはなかった。
…………いや、昔、一度だけ、何かを見て心の底から素敵だと思ったことがあった気がする。どこだっただろう。いつ、誰に。
「スピカくん、何か食べられそうですか? 無理そうなら、飲み物だけでも。何か胃に入れたほうがいいですよ」
いつの間にか台所に立っていたクロトは、絵の具で取手が汚れた冷蔵庫を開けて、牛乳を取り出した。それから、棚から紅茶の缶を引っ張りだし、牛乳の入った鍋を火にかけた。
「ミルクティーは嫌いではありませんか?」
「あの、えっと、飲んだことがないのですが……、大丈夫だと思います」
「おや。……まあ、ありませんよね、あの孤児院じゃ。きっと気に入りますよ。私、お菓子と紅茶には自信があるんです」
「俺が孤児だって知ってるんですね」
「ああ、ええ。新聞売りは孤児の仕事だというのは、有名な話ですから」
地下の獣人 なのに、やけに地上に詳しい獣人だとスピカは思った。スピカはアンダーシティのことなど、まるで知らないというのに。
「でも、そんなに昔のこと……。俺が新聞売りしてたのって……10年、いや12年……」
「ふふふ、貴方にとっては遥か昔かもしれませんが、私のようなおじさんにとっては、つい最近のことですよ。……それに、幼い貴方を見て、私の幼い頃を思い出したから、とても印象に残っているんです」
「クロトさんの小さい頃……」
「ええ。口が下手で、怪我ばかりで……。私も孤児で、幼い頃から穴を掘って暮らしてきました。アンダーシティでは、身寄りのない子供は炭鉱や工事現場なんかで働かされるのですよ」
アンダーシティには法律も学校もない為、そこに住む孤児たちは、地上の子が学校に通う年になっても、学ぶこともできず働かされる。地上の孤児は学校に行くことが法律で義務付けられているが、アンダーシティにはもちろんそんな法律はない。
スピカには、地上の孤児院のほうが、よっぽどマシに思えてきた。
「アンダーシティがこんな街だって知りませんでした。それに、貴方のような人がいるとも。俺の知ってるアンダーシティは、お酒のイメージだけだったので」
「ふふ、そうでしょう。アンダーシティの人間は野蛮人ばかりですからね。……まあ、酒でなく紅茶なんて飲んでいるから、私は『はぐれ者』と呼ばれてしまう訳ですが」
紅茶の茶葉をスプーンで掬いながら、クロトは笑った。言動や行動に似合わない、黒と赤の派手なネイルがどこか不気味だった。
「私、お酒が苦手なのですよ」
スピカは、見るからにそんな感じがする、と失礼にも思った。細腕に色白。身長も高い方ではないし、一言で表すなら、“貧弱”といった姿だ。
「そうだ、ケーキ食べられそうですか。リンゴのパウンドケーキなので、そんなに重くないとは思いますが」
「い、いえ、そんな。申し訳ないです」
スピカは手を振って遠慮を示したが、クロトはくすっと笑ってから冷蔵庫を開いた。
「遠慮しないでください。三十路の悲しい独身男の趣味に付き合ってあげるつもりで、どうぞ食べていってください」
「独身、なんですね」
「ふふ、夢ばかり追いかけるからでしょうか」
何も言わなかったが、心の中で少しホッとしているような自分がいることに、スピカは気がついた。しかし、それがどういう感情なのかは、まだわからないままでいた。
「口に合うかはわかりませんが」
ミルクティーとケーキを机に置いてから、クロトはスピカに近寄り、手を差し出した。ふらつきながらもなんとか立ち上がって、スピカは椅子に座る。クロトもすぐに向かいに座った。
「どうぞ」
「い、いただきます」
そう手を合わせてフォークを握る。クロトがミルクティーのカップを両手で握り込んでふっと息を吹いた。
「スピカくんはイーストシティに住んでいるのですね」
「よ、よく分かりましたね。名前もイーストシティぽくないし、コアラ族はサウスシティに多く住んでるのに……。あ、新聞買った場所ですか?」
「それもありますが……、食事の前に『いただきます』と言うのは、イーストシティの人間が多いですから」
「あれ、他の街じゃ言わないんですか」
「言う人もいますけれど、多くはありませんね。お祈りしたり、何もしなかったり……。アンダーシティやセントラルシティなら、様々な文化が混じっているので言う人も多いですが。イーストシティのその風習は、大昔のヒト族の国の”日本“というところの風習らしいですよ」
クロトはミルクティーが熱かったのか、一口飲んだだけでカップを机に置いた。そして、先にフォークでケーキを切り分けて口に運んだ。
「うん、おいしいです」
抑揚の少ない、落ち着いた綺麗な声。やはりどこかで、聞いたことがある。クロトはスピカに出会ったことがあるとはっきり言うが、スピカにも、それはなんとなく分かる。絵を見ただけで知り合いだと分かるくらいには、幼い頃の自分もこの男を好いていたのだろうとスピカは思っていた。
スピカも、ケーキを一口に運んだ。りんごの香りがふわっとして、甘い味が染み渡った。
「おいしい……」
「ふふ、良かった」
「作ったんですよね、これ」
「はい。目が見えなくても慣れればこのくらい作れるんですよ」
言われて、ちらりとキッチンを見ると、道具は見事に整頓されていた。生活に必須の場所はまるでモデルルームのようで、思わずすごい、と声が漏れる。
盲目のクロトは、どこに何があるかわかっている状態でないとうまく暮らせない。つまり、整理整頓は暮らしに必須なのである。そのため、道具だけはいつも綺麗に整頓してある。
しかし、この家には、ところどころ、ホコリが溜まっているところや、絵の具で汚れた箇所がある。それは、クロトは道具の整頓が上手いだけで、掃除は得意ではないからだろう。生活していく上での必須条件であれば、苦手な整頓が上手くもなるというものだ。
「……やっぱり、掃除が行き届いていませんか」
クロトが表情を変えずに言った。スピカがキョロキョロとして落ち着かないことに気がついたようだ。少し困ったような、恥ずかしそうな声色だったために、思わずスピカは反射的にいいえと答えた。
「ふふ、お世辞ですか? すみません。どうしても、掃除するのが難しくて。あまり、綺麗好きな方でもないですし。……やっぱり、地上の方には不快でしょうか」
「そ、そんなことはないです! ……あ、でも、その、あの、良ければ俺に掃除させてください。得意なんです。えっと、お礼も兼ねて」
「ですが、今貴方に無理はさせられませんし……」
「だ、大丈夫です! 掃除くらい……」
「ですが、もう夜になってしまいますよ?」
「な、なら来週!」
スピカは、思わず食らいつくように声を出していた。クロトが驚いたように固まる。スピカもスピカで、自分の大声に少し恥ずかしくなって、後半はもごもごと小さな声で囁いた。
「ら、来週、また来てもいいですか……?」
クロトは瞬きをすると、ふっと頬を赤らめて笑った。
「……ふ、ふふ、変な子ですね、貴方は」
柔らかそうな灰色の髪の毛が揺れて、細い指先が居心地悪そうに首元を滑った。白肌が赤みを帯びていて、とても嬉しそうにしているのが目に見えて分かる。
「構いませんよ。貴方といるのは、私は楽しいですから」
「……花を持って来ます。次は絶対」
そう言うと、クロトはまた嬉しそうに肩をすくめて、ありがとうございますと笑った。
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