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コアラとモグラ 第一章 第六話
コアラとモグラ編
第一章 第六話「正体不明」
「……ん! ……さん!」
声がする。大声だ。誰かが叫んでいる。
「……ト……、ロト……ん!」
心拍が聞こえる。普通より速い。
でも、すごく優しい音だ。それに、なにより、声が柔らかくて滑らかで、とてもいい。
「クロトさんッ!」
すぐに、スピカだと気がついた。
スピカが今にも泣きそうな声で、クロトの肩を揺らしている。
「クロトさん! わかりますか? 俺……!」
「…………すぴか、くん」
クロトがぼんやりと答えると、スピカは一瞬たいそう安心したように笑い、胸を撫で下ろした。
「よかったぁ……」
スピカはガサガサと袋を漁ると、取り出した何かをクロトの口に放り込んだ。
「あの、これ食べてください。モグラ族は体質的に飢えに弱い種族だと聞いたので」
「……チョコレート、ですね……」
「や、安いものですみません……」
「いえ、おいしいですよ……」
チョコレートを噛み砕きながら、クロトはぼんやりと思考した。
「そういえば、貴方どうしてこんなところに……?」
「あの、掃除と、花を……」
「そうでしたね……そんなはなしも、しましたね……」
まだ頭が働かない。スピカが心配そうにしていることだけが伝わってくる。
「…………まだ苦しいですか?」
「? 何がでしょう……」
「いえ、その、俺が来たとき、苦しいって」
クロトはハッとして、突然起き上がるとスピカの身体に触れた。最悪なことに、彼は服を着ていなかった。
クロトの思いがけない行動に、スピカが真っ赤になって固まる。スピカは人に触れられることを極端に嫌っているからだ。押し返すこともできず、スピカは困惑の表情を浮かべた。
しかし、目の見えないクロトはそれには気づかず、スピカの肩を握って、震えた声ですみませんと言った。
「えっ、何がですか?」
「私、貴方を……っ」
スピカの身体を、汚してしまったのだ。クロトは絶望した。あの薬は、獣人特有の性質である発情期を誘発させた上、理性をほぼかき消してしまうものだ。体内に残りやすい性質もあり、今まで何度、許されぬ罪をおかしたことかしれない。クロトは青くなって固まった。
しかし、当のスピカは、きょとんとして首を傾げただけだった。
「あ、も、もしかしてまだ気持ち悪いですか? 吐きそうですか?」
クロトは固まる。スピカの身体に触れたまま、確かめるべく恐る恐る尋ねた。
「私、もしかして戻しましたか……?」
「え、ええ。でも、片付けたから大丈夫ですよ」
「あ、あぁ、そうですか。こうなるといつも戻してしまうんです……」
クロトは少しだけ安堵し、その後また自己を嫌悪した。何であろうと、子どもに迷惑をかけたことにかわりはない。見えぬ男の前とはいえ、思春期の青少年に服を脱がせたのだ。
「い、いえ。俺別に気にしませんし、そのおかげでクロトさんの胃の状態も分かりましたし、何も悪いことばかりでは……」
スピカが頬を真っ赤に紅潮させて訳のわからない言葉を口走りながら、どうしようもなくなって、チョコレートをまた一欠片クロトの口に突っ込んだ。クロトが驚いてスピカから手を離す。
「あ、あの、あんまり、触らないでください……。触られるのが、得意じゃ、なくて……」
「ああ、申し訳ない。そうだったのですね。すみません、大丈夫ですか」
スピカは大丈夫ですと返したが、クロトに触られたところがなんだかゾワゾワして我慢ならず、さっと立ち上がった。
「お風呂、沸かします」
「いえそんな、私がやりますよ」
「だ、だめです、身体が……」
「これは私の問題ですから」
ぐるぐると、熱が回るような感覚。自分が何を言っているのか分からなくなってきて、スピカはとにかく歩こうと足を出した。
「スピカくん」
クロトが、スピカを止めようと、また彼の腕に手を触れた。驚いたのか、びくりとスピカが跳ねて、クロトはあっと声を上げた。
「い、いいからクロトさんは座っててください!」
正体不明の感情のままに出した大声は、自分の出したものとは思えなかった。スピカは酷く恥ずかしくなり、縮こまってしまった。
「……この間の、お礼ですから」
小さく言って、スピカは風呂場へと向かう。
正体不明の感情に、緩やかに侵されていっている気がした。
「びっくりしました。貴方にあんな大きな声が出せるなんて」
クロトが、スピカを見上げるようにしてくすりと笑った。スピカは、先ほどクロトに借りたシャツを着ている。
「あ……、す、すみません……」
「ふふ、まさか。怒っていませんよ。私は貴方が感情を表に出せていることが嬉しいんです」
気が気でない。今のスピカの感情は、まさしくそれだった。
「あの、頭流すので、目開けないでくださいね」
「はい」
スピカは今、狭いバスタブにお湯をはり、クロトの髪の毛を手洗いしていた。
クロトがフラフラと、歩くことさえままならないのが見ていられず、つい「お手伝いしましょうか」と声をかけてしまったのがいけなかった。腕をあげることさえしんどそうで、あれよこれよと手伝っていくうち、こんなことになってしまったのだ。
精液や土埃で汚れていた灰色の髪が、かけられた水を滴らせ艶を取り戻す。一本一本が、しっかりとしていて美しい。
「上手ですね」
「あ、えぁ、あ、ありがとうございます」
クロトに柔らかく微笑まれ、スピカは顔を真っ赤にして固まった。彼の目が見えていたら、おそらく自分は気持ち悪くて見られたものではなかっただろう。
「ふふ、地上の孤児院だと、下の子のお風呂のお世話とかするんですかねぇ。地下はお風呂なんてめったに入れませんでしたから……」
「そう、ですね」
下手な相槌を打つので精一杯だ。スピカは元々感情の希薄な男であったので、ここまで感情に弄ばれるのは初めてだった。
「…………やっぱり、嫌でした?」
スピカの落ち着きのなさが気になったのか、クロトがスピカにそう尋ねた。
「い、いえ!」
スピカは慌てて否定した。しかしクロトは、子どもに自分の体を洗わせるという行為を申し訳なく感じていたらしく、少しだけ肩を縮こまらせて言った。
「助かってはいるのですが、回復してから入ればいいのですから、貴方が無理をすることは……」
「……いえ、違います、本当に……」
クロトが複雑そうに微笑んで、貴方がそれでいいならいいのですけれど、と言った。
「本当のところを言うと、とても助かりました。貴方が来てくれなかったら、私は死んでいたかもしれない」
「…………それは、その、なんというか、すごく困ります」
「ふふふ、困ってくれるんですね」
クロトは少し笑った。白い頬に色が戻り始めている。スピカはほっとした。
ゆっくり丁寧に洗っていくうち、クロトの体は、あらかた綺麗になった。スピカは、クロトの滑らかな白肌に目を奪われつつも、彼の身体の痛々しい傷は見過ごせなかった。
「……痛くありませんか」
「大丈夫ですよ。慣れています」
「…………慣れていたって、痛いものは痛い、でしょう」
「ふふ、貴方がそれを……」
スピカは口を閉ざす。何があったか、その身体が全てを語っていた。先程吐き戻した彼の吐瀉物は、殆どが食べ物ではなく、精液と薬品だった。首を突っ込むのは、野暮なのかもしれない。
「服、これでよかったですか?」
「はい。ありがとうございます」
クロトはスピカがタンスから引っ張ってきた服を着た。スピカとクロトが元々着ていた服の入れられた洗濯機が、ガタガタ荒い音を立てている。
「立てますか」
「よ、と」
「こ、転ばないでくださいね」
「はい。あ、わ」
クロトが廊下に倒れ込んだ。雫が垂れている髪の下で、クロトの頬が少し赤く染まった。
「…………背負いましょうか」
「も、申し訳ない……。うまく足に力が入らなくて……」
「いえ。俺もこう、もう少し力持ちなら、横に抱いて運べたんですが……」
「それはそれで少し恥ずかしいですけれど……」
スピカの背に身を預けたクロトだったが、彼の温かい体温に、瞼がとろとろと落ちてきた。クロトは盲目で生まれるほどに獣性が強い獣人であるために、モグラらしく眠気にもめっぽう弱いのだ。
「あの……、スピカくん……、あの……、ベッド……」
「はい?」
「ベッドに、……おろして……ください……………」
「え、あ、はい」
クロトをベッドに横たえると、クロトはすぐにすやすやと眠りについてしまった。スピカがクロトの肩を揺すり、必死で声をかける。
「ご、ご飯食べてください! 死んじゃいますって! クロトさん!」
クロトは心地よさそうに眠りについている。なんだかとても落ち着かない。スピカは髪の毛をかき混ぜて座り込むと、大きくため息をついた。
「これ以上困らせないでくださいよ…………」
スピカはクロトの腕や足の深い傷を丁寧に治療し、細い体に毛布をかけた。
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