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コアラとモグラ 第一章 最終話
コアラとモグラ
第一章 最終話「Trust me」
どこからか、ふわりと、美味しそうな匂いがしてきた。
「クロトさん、クロトさん」
スピカの声。そういえば、すごくお腹が空いている。ふと、クロトの唇に温かいものが触れた。米と卵の優しい匂い。クロトは思わず口を開けて、それを頬張った。
「……? おいしい……」
「ふ、ふふ……」
「スピカくん……ですか……?」
「目は醒めましたか?」
困ったような声で、苦笑いをこぼすスピカ。クロトは口の中に与えられたものを噛んでいたが、しばらくしてぼっと頬を赤く染めた。
「スピカくん……!?」
「おはようございます、クロトさん」
「お、おはようございます」
口の中のおいしいこれはお粥だと気付くのにそこから数秒かかった。
「あ、あ、えっと」
混乱して喋ることもできないクロトを見て、スピカはクスクスと笑った。
「お腹空いてたんですね」
「う……」
「大丈夫ですか? まだ具合が……?」
「さ、30数年生きてきて、こんな醜態を晒したのは初めてです……。ああ、お恥ずかしい……」
スピカがおかゆをクロトの口に運ぶと、クロトは遠慮がちに口を開いてそれを食べた。
「どんな貴方を見ても、俺は貴方に幻滅したりしませんよ。どんな貴方も俺は好きです。だから恥ずかしがることはないです」
「そ、そう、ですか」
なんだか恥ずかしくなって、クロトはたじろいだ。そんな彼とは対象的に、スピカは落ち着いた様子で微笑む。
スピカの“好き”に深い意味は感じられない。単純に、好きか嫌いか、その二択なら好き。おそらく、そのくらいの話だろう。出会って間もない人間に、そこまで深い愛を感じる人間はもちろんいないだろうし。しかし、それでも、真っ向から伝えられた好意に、クロトは普段通りではいられなかった。
「大丈夫ですか、クロトさん」
「大丈夫です。少しぼーっとしてしまいました」
クロトは苦笑いをこぼして、恥ずかしさに喉元を爪で引っ掻いた。
「本当に、何から何まで、助かりました」
「いえ、大したことじゃ……。この間のお返しですし……。あ、花も、香りの良いのを持ってきたんですよ」
百合です、とスピカは嬉しそうにした。
「ありませんございます。地下では花なんてなかなかお目にかかれませんから、とても嬉しいです」
「クロトさんは花が好きですか?」
「よく絵にします。好きですよ」
スピカは皿からお粥をすくって、またクロトの前に差し出す。しかし、意識が完全に覚醒してしまったクロトには、それがひどく恥ずかしかった。
「あの、自分で食べられますから、器を下さいますか」
「あ、ああ、はい。すみません。どうぞ」
「ありがとうございます。……そういえば、これは手作りですか?」
スピカはあっと声を漏らすと、何故かすぐに、すみませんと謝罪を述べた。
「勝手にキッチンを使ってしまって……」
怒られると思ったのだろうか。クロトはつい、スピカの頭を優しく撫でた。
スピカは驚いたが、やはり、彼に触られるのは嫌ではなかった。むしろ、擽ったいような、焦れったいような、不思議な心地がする。心がふわりと浮くようだ。
「構いませんよ。そうですか。作ってくださったのですね、ありがとうございます」
「キッチンの道具は元の通りにしてありますから」
「ああ、それは助かります」
「気の利いたものが作れなくてすみません」
「いいえ、お粥おいしいですよ。それに、貴方がここへ来てくれただけで、私はとても嬉しいですから」
「……そうですか。それなら、良かったです……」
話が一段落ついて手持ち無沙汰になったスピカは、お粥を食べるクロトを、花を観察するときのようにじっと見つめた。
美しい白肌にかかる灰色の絹のような髪。藤色の瞳。地上に生まれていたのなら、誰もが放っておかないだろうその姿。
優しく凛とした声、穏やかで品のある性格。彼のどこをとっても欠点がない。
スピカはもっと深くを見た。スピカの瞳は、他と違う。かすかな息遣い、心臓の音、筋肉のきしみ、彼が生きているという感覚。彼は、それを見る 。
スピカはこれが好きだった。生き物が生きている感覚。その力の強さが好きだった。
「……スピカくん?」
けれど、クロトのことを深く深く見ていくうち、スピカは苦しくなっていった。スピカが今見ているものは、力強さや美しさとは無縁の景色だったのだ。
クロトの身体の中身は、彼が生きようと心臓を動かすたびにぐちゃぐちゃと音を立てていた。切り傷から溢れるドロドロとした黒い液体。彼の体中を巡っている、誰かの欲望。荒れた臓器、軋む体。ドクドクと心拍数が上がっていく。
「あの…………」
声をかけられても、スピカは動けずにいた。目を離せ。見てはいけない。この人の中身を見てはいけない。__彼が傷つくだけだから。分かっているのに、どうしても目が離せない。
スピカはじっとクロトを見つめたまま、深い世界に浸って、出られなかった。
「……困りましたね」
クロトがスピカの肩に触れると、やっとスピカはハッとしてクロトを見上げた。
「そんなに熱心に見られては恥ずかしいですよ」
「あ、す、すみません、癖で」
「何をそんなに熱心に見ていたのですか」
「あ、えっと…………」
スピカは言うのを少し躊躇ったが、やがてうつむいたまま言った。
「……こんなこと言うと、唯一の友達にまで変だって言われるんですが……」
「はい」
「…………生きている力を、見ているんです」
「生きている力……?」
クロトは怪訝そうに繰り返した。
「例えば花なら、水が葉を流れる音を聞いたり、光を吸収する姿を見るんです。人なら、その人の、心の中身が見えることもあります。その生き物の中身を、感じ取るというか……」
クロトはぽかんとして聞いていた。
居心地が悪くなり、スピカはそわそわと動いた。また、戯言だと思われるだろうか。
「…………貴方は、見えている世界が人と違うのですね」
しばらくして、クロトはそう言った。
「……やっぱり変だと思いますか」
聞くと、クロトはすぐに首を振った。
「いいえ。まさか。……そうですね、なんと言えばいいのでしょう。私も盲目の世界を見 て 描きますが、貴方とはまた違う。『見る』という行動は、きっと幅広いのでしょう。何も変なことはありません」
クロトは微笑んだ。
スピカは、おそらく、なんらかの力を持っているのだろう。幽霊が見える人や、むしのさざめきが聞ける人に似ているのかもしれない。きっと、それはあまりに残酷な力だろう。
「……しかし、貴方は感性の鋭い人だから、イーストタウンのような大きな街では暮らしにくかったでしょう」
「騒音の多い街ですけど、もう慣れました。それに、いつでもこうやって見ているわけじゃないので。うまく付き合えるようになるまで、結構かかりましたけど……」
「そうでしたか」
クロトはそれなら良かったとにこにことしている。しかし、一方のスピカは、先程見たクロトの体が気になって仕方なかった。腕に残る痛々しい生傷、風呂場で見た背や腹の痣や銃痕、そして、彼の内側を巡る“良くないモノ”。その全てが彼の身体をジクジクと蝕んでいるようにスピカは感じた。
「……クロトさんは、この街で暮らすのは苦しくないのですか」
気づいたときにはもう言ってしまっていた。しまったと思った。
撤回しようと慌てて顔を上げたが、もうすでに遅く、クロトは少し不安そうな面持ちで口の端を軽く持ち上げて笑った。
「私の中の何かが見えたのですね」
それからクロトは何も言わなかった。ただ、俯いて、空になった皿を握りこんでいた。
「…………俺には、今の貴方は、とても苦しそうに見えます。きっと、アンダーシティが貴方を苦しめている。……俺、クロトさんには、もっと見合う場所があると思うんです。貴方は、地下の下劣な奴らとは、違う……」
重たい沈黙が部屋を支配していた。スピカは苦しくなり、クロトの方を向いた。クロトは、俯いて、空になった皿を引っ掻いていた。
「…………そうでしょうか」
クロトは静かにこぼした。苦しそうな声だった。震えていた。クロトが見せたその弱々しい姿に、スピカは動けなくなった。
「……本当に、そう思いますか」
「……もちろんです。貴方は、アンダーシティなんかにいるべき人じゃない。あいつらとは、違う」
スピカはすぐに答えた。
普段のクロトであれば、うまくいなしていただろう。もしくは、その言葉のまま、受け取れていたかもしれない。しかし、今のクロトには、その余裕はなかった。
「でも、貴方は、私のことなど何も分かっていないでしょう」
クロトの声は、はっきりとしていて冷たかった。
スピカは何も言えなかった。確かに、彼について、自分は何も知らなかった。会って数日の男が何を言うかと思われていても仕方がない。
「……すみません、意地悪を言ってしまいました」
黙り込んでいると、クロトが低い声で呟いた。クロトはスピカとまっすぐに向き合い、言いにくそうに次の言葉を発した。
「私は、重度の麻薬中毒者です。それに、望まれれば誰とでもセックスをします。性行為が好きなんです。薬でおかしくなった頭で、貴方と同じように地下へやってきた人を、無理矢理犯したことだってある。…………貴方が見た私の中身は、きっと腐りきっていたでしょう? 私には、この街と同様、少しの価値もない」
クロトは淡々とそう述べた。言葉のひとつひとつを発するたび、苦しそうだった。
「私に価値なんてない。私は地上では許されぬような犯罪を、それこそ腐るほど犯しています。……さっきだって、私は知らぬ間に貴方を犯したんだと思いました。それをやってしまっておかしくない獣人 なんです、自分でそれを疑うくらいの男なんです。……私は所詮、そんな獣人 なんです……!」
「……っ、でもクロトさんは……!」
「そんな私を」
無理やり言葉を遮られ、スピカは言い淀んだ。しばらくの沈黙。クロトは次の言葉を、いつものような穏やかな表情では発せなかった。
クロトは泣いていた。ぼろぼろと涙をこぼしながら、苦しそうに笑っていた。
「……貴方は、そんな私を、彼らとは違うなんて言い切れないでしょう」
スピカは動けなかった。何と声を掛ければいいか、分からなかったからだ。それを感じたクロトが、悲しそうに、自分を嘲るように笑う。
スピカは、奥歯を噛みしめて、すぐに慰めてあげられない、気弱で情けない自分を悔しがった。
彼の匂いが地上の人間とは違うことには気づいていた。自分と同じ傷を負い、自分以上に苦しんでいること。彼の身体が薬に侵されていること。地下の人間が彼を卑しい目で見ていること。彼が自分を忌み嫌っていること。
そのすべてに、どこかで気づいていたのかもしれない。
「…………私は汚れている。貴方のように、綺麗な心でいられない……」
「……貴方が汚れているのなら、俺だって同じように汚れているでしょう」
スピカはなんとか声を出した。身体のことなら、スピカだって変わらない。身体は生きるための道具だ。好きでもない獣人 と性行為をするのは生存戦略だ。
けれど、クロトは首を振る。
「いいえ。貴方は綺麗な人です。汚れてなどいない。…………私は、私は、あの男を欲してしまっている。あの下劣な行為を、薬の快楽を、支配されて痛めつけられるあの快感を、欲してしまっている……。貴方とは違うんです」
スピカは、なんとかしたいと思った。彼を苦しめるものを、どうにかして消してしまいたいと。けれども、この人のことをよく知らないために何も言ってやれない自分が、ひどく惨めに思えた。
クロトは、いつからそんな苦しみを抱えて生きてきたのだろう。思えば、彼がどうして孤児になったのかも、家族のことも、好きなものも、嫌いなものも、スピカは何も知らない。本当に、彼について何も知らない。
そのくせ分かったような口を利き、「貴方は他とは違う」だなんて、無責任なことこの上ない。
「でも……っ」
口から勝手に言葉が飛び出していた。
でも、なんだろう。なんと言えばいいのだろう。彼は嘘をついていない。これは事実だ。悲しいことに、事実なのだ。全て。__でも。
「…………それでも、それでも俺は、クロトさんが好きです……っ」
言えることはこんなことしかなかった。けれど、確かにスピカの本音だった。好きの大きさはうまく測れないが、自分はこの人が好きなのだと確信していた。
「俺は、貴方が優しいことを知っている。優しいクロトさんが、俺は好きです。……もちろん、それ以外のことは、クロトさんの言う通り、何も……、何も知りません」
クロトはうつむき、掠れて小さな声で呟いた。
「……それなのに、貴方は私を随分過大評価するのですね」
「……本当は、これは過大評価じゃないって、言いたいです。けど、俺は何も知らない。…………でも、知らないから。……今は、貴方が優しいことしか知らないから……。だから、貴方のことをもっと知りたい。知って、貴方は価値のある人間だと、俺の手で証明したい」
思い出せないけれど、ずっと昔から憧れていた人がいた。その人は背筋のぴんと伸びた素敵な紳士で、身のこなしが美しい人だった。おぼろげな記憶の中で、その人は優しくスピカに手を差し伸べるのだ。
幼い頃、スピカはその人のようになりたかった。記憶の中のその人の真似をして、背すじを伸ばし、堂々と歩くようになった。人と少しずつ喋るようになった。
あの人のように、今、クロトに手を差しのべたい。この人を照らす光となりたい。
「クロトさんの好きなもの、クロトさんの嫌いなもの、家族のこと、昔のこと、今のこと……。全部知らなきゃ、俺は貴方のことを価値のない獣人 だとは、とても思えない……!」
スピカはクロトの手をそっと握りこんだ。
「クロトさんのこと、教えてください……!」
スピカは、こんなにたくさん喋ったのは生まれて初めてだった。息が切れる。大好きな花のことですら、こんなに熱くなったことはない。
しばらく、部屋にはスピカの呼吸音以外に物音もなく、静かだった。ゆっくりと、スピカが息を吐く。
「…………星」
ぽつりとクロトが零した。
「へ?」
「星が好きです。私」
スピカがぽかんとしていたが、そんなことは気にせずクロトは続けた。
「スピカ。乙女座の一等星」
「えっ、と……」
「古く、ヒト族の国、日本では、真珠星とも呼ばれていました」
クロトは頬を染めてはにかんだ。
「……一番好きな星なんです。すごく綺麗な名前ですよね。きっと、とても明るい、素敵な星なんでしょう」
「…………星が好きなんですか?」
「はい。それから、甘いものと紅茶が好きです」
もしかして彼は……。
スピカは一度間をおいて、再びゆっくりと尋ねる。
「え、えと、じゃあ、嫌いなものは……?」
「幼虫でしょうか。柔らかくて生暖かい感じが、触れるとびっくりしてしまいます」
しばらくどちらも黙り込んでいたが、次第にスピカがぱぁっと明るい表情になっていった。
クロトが自分のことを話した。好きなものと嫌いなもの。ほんの些細なことだが、それがとても嬉しかった。
スピカが、見えずともわかるほどに嬉しそうにするので、クロトは少し照れて頬をかいた。
「……しかし、なんだか恥ずかしいですね、自分のことを喋るのは」
「俺はもっと知りたいです」
「うーん、でも、私はあまり、自分のことを話すのが好きでは……」
「今日全部話せとは言いません。ゆっくりでいいんです。貴方が話したいときに話してくれれば、それでいい。俺、何回でもここへ来ますから」
スピカの熱意に、クロトは困ってしまった。この若者は、どういう気持ちで自分の元に通いつめようとしているのか、理解できなかった。
「もっと貴方を知りたい。こんなに人に興味を惹かれたのは、生まれて初めてです」
「……恥ずかしい人ですね、貴方は全く」
スピカが、クロトの言葉の意味をはかりかねて首をかしげた。クロトは頬を赤く染めたまま、ふっと微笑む。
「お茶にしませんか。私も、貴方の話がききたい」
「はい、もちろん! あ、俺、少ないですけどお菓子持ってきてます」
「本当ですか? もしかして、先程頂いたチョコレートでしょうか? それでしたら、あまり甘くない紅茶をお出ししましょう」
「キッチンに椅子運びます」
「大丈夫ですよ、立てますから」
これは卑屈な自分の負けだ。彼に敵う気がしない。
クロトは、スピカの言うように、自分にも何か価値があるかもしれないと、少し信じてみる気になった。
あの幼く、満足に会話もできなかった少年が、自分のためにこれだけ必死になってくれたのだから。
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