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ナマケモノとタカ 第一章 第二話

ナマケモノとタカ編  第一章 第二話「シラトリ家の男」  白い布に白い壁。保健室というのはどうしてこうも落ち着かないものか。マヒロは、養護教諭に頭を治療してもらいながら思った。 「傷は深くなくてよかったね。でも、どうしてそんなことしたのかなぁ、マキくん」  のんびりとした性格の養護教諭は、不思議そうに言った。マキといえば、誰からも可愛がられるムードメーカーで、明朗快活な男だ。いたずら好きなところは玉に瑕だが、教師からの評判もよく、いたずら以外で悪い話は一つも聞かない。それが、突然人に害を加えるなんて。 「……俺のことが嫌いだと言っていました。俺が、何か気に入らないことをしたのでしょう」 「でも、マキくんはそんなことで殴るような子じゃないと思うんだけど……」 「いえ、殴られたわけではありません」 「危害を加えられたんだから、一緒一緒」  てきとうなひとだ。マヒロは思った。今まで保健室というものに縁がなかった彼は、はじめて顔を合わせた先生との距離感がうまく分からず沈黙した。 「はい、おしまい」  養護教諭は手際よく治療を済ませると、マヒロの肩をぽんと叩いた。マヒロは、綺麗にまかれた包帯にそっと手を触れる。 「……先生、よろしいですか」 「ん? なに?」 「マキのご両親には、このことを伝えないでください。他の先生方にも、言わないで頂きたい」 「え、どうして?」 「俺は軽い怪我で済んでいます。大事にしたくありません。マキは今、陸上の大会を控えた大切な時期なので」 「うーん、マヒロくんがそれでいいならいいんだけど」  そう言ったあとで、いやまああんまりよくないんだけどさ、と付け足した。この先生はどうにもゆるい。 「助かります」 「でも、本当にいいの? どうしてあのマキくんが貴方に暴力を振るったかはわからないけど、また危害を加えられるかもしれないのに」 「俺は丈夫なので、平気です」  失礼します、とマヒロは保健室を出ていった。  いつもは優しくてお調子者のマキが暴力を振るったことが気がかりで、養護教諭は、マヒロの後ろ姿を心配そうに見つめていた。  「マヒロ、その包帯はなんだ」 「え」 「なんだときいているんだ」  父が、食事の手を止めるなど珍しい。マヒロは箸と皿を置き、正座をし直して答えた。 「……喧嘩を、しました」 「みっともない。外しなさい」  マヒロは少し狼狽えたが、すぐに包帯を取った。それから、傷口を押さえていたガーゼもはぎ取る。 「…………シラトリ家の男が、怪我を負わされるなど考えられん。例え相手が肉食獣だろうとだ」  相手がナマケモノだなどと知れば、彼はどんな顔で自分を叱りつけるだろうか。マヒロはすっと手を前につき、深く頭を下げた。 「も、申し訳ございません、父上」 「うるさい。どうせお前は謝罪と言い訳しかしないんだ、喋るんじゃない」  頭を上げたマヒロは俯いた。傷痕が風に晒されて、鋭く傷んだ。 「…………おい、父上はお怒りだ。何をすべきか分からないか」  父によく似た長兄は、マヒロを見てそう言った。マヒロは長いまつげを伏せて俯く。一礼すると、さっと足を引いて立ち上がった。 「……失礼いたします」  足音を立てぬように歩き出す。夜風が、冷えた身体をさらに凍りつかせていく。  角を曲がると、噂好きの召使が二人、コソコソと会話しているのを見つけた。 「あっ!」 「え? ……あっ、マヒロ様!? も、もうお食事はよろしいのですか?」  彼らは、こちらを恐る恐る見上げる。大方、「またマヒロ様がご主人様に叱られていた」という話でもしていたのだろう。 「…………父上の湯呑みが空だった。早めに向かったほうが良い」 「は、はい!」  マヒロはまたゆっくり歩き出した。  マヒロの生みの親は、彼らのように、召使としてシラトリ家に出稼ぎに出てきていた。召使にするには不器用すぎる男だったが、美しい容姿を買われたらしい。しかし、その美しい容姿のせいで、主人である父親によって無理やり犯され、マヒロを孕んだという。つまり、マヒロは、兄弟で唯一、きちんとした血を引いていない私生子であった。  召使である彼らと、召使の子どものマヒロは、本来はほぼ同じ身分だった。しかし、マヒロがシラトリ家当主の私生子だという事実を隠したがった父により、運良く身分を得た。だから召使も、油断して簡単にマヒロの陰口を叩く。  マヒロが洗面台で歯を磨いていたら、掃除に来た召使と鉢合わせした。 「あっ、マヒロ様。も、申し訳ございません、まだお掃除が……」 「俺はもう寝る。……ご苦労さま」  召使にそう告げて、マヒロは部屋に戻った。  大丈夫。眠れば朝になる。朝になれば、またここから、抜け出せる。――彼にも、会える。 「…………大丈夫だ」  マヒロは、小さいながらはっきりとした声でそう口に出した。

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